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コフィ・アナン負の遺産──国連はなぜルワンダ虐殺を止められなかったのか?

ニューズウィーク日本版 / 2018年8月27日 16時0分

1994年4月6日夜、ルワンダのハビャリマナ大統領機が首都キガリの国際空港に着陸する直前に撃墜され、その数時間後から政府軍・民兵とRPFの両者による殺戮が始まった。7日に政府軍がベルギー兵士10名を殺害したことを受けて、ベルギー政府は、UNAMIRの主力であるベルギー軍の即時撤退を発表した。

4月8日、安保理はUNAMIRに停戦協定のためにすべての可能な行動をするようにという、最初の指令を出した。しかし、ダレール司令官曰く、ハビャリマナ大統領の暗殺後に設立された新暫定政府は4月12日、RPFに休戦を提案したものの、RPFは交渉する意思がないように見えたという。

そもそも内戦中の1991年も1992年も停戦合意が結ばれたが、ルワンダ政府と違ってRPFはそれを尊重することはなかった。RPFはウガンダを後方基地として使用し、ウガンダからの軍事支援に依存していた。ハビャリマナ大統領機を撃墜したミサイルも、RPFがウガンダから運ばせたと言われている。RPFは、トラックで料理用のまきを輸送していると見せかけて、そのまきの中にミサイルを隠していた疑惑が強い。

4月21日に国連安全保障理事会は、UNAMIRの人員の縮小を決議した。しかし、その8日後の4月29日、大量のルワンダ人が難民として国外に流出し始め、ガリ国連事務総長と国連安保理は、それがルワンダと近隣国などの地域全体に不安定をもたらすことをおそれ、殺戮を止めなければならないことに同意した。国連は、ツチの文民を保護するために、さらに強い任務を有する新しいPKOの派遣について議論し始めた。



しかし、その翌日の30日、RPFは下記の書簡を国連に送り、新しい国連PKOの派遣に断固として反対した。その書簡の内容とは、「ジェノサイドはほぼ終わった。この時点での国連の介入は、大量殺戮を止めるのには役に立たない」というものであった。



The genocide is almost completed. [...] UN intervention at this stage no longer serve any useful purpose as far as stopping the massacre is concerned(RPFから国連への書簡)

現実はこの書簡の内容と異なり、ルワンダでは10万人のツチが生存し、救出を待っていた。RPFはそのことを把握していたが、RPFの抵抗により、ツチの文民の救出がかなり遅れたのである。

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