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中国の「監視社会化」を考える(1)──市民社会とテクノロジー

ニューズウィーク日本版 / 2018年12月5日 15時30分

もちろん、習近平への権力集中が強化される現代中国において、そのような「市民による政府の「監視」の監視」というメカニズムは望むべくもありません。それでは、中国のような権威主義的な国家における「監視社会」化の進行は、欧米や日本におけるそれとは全く異質な、おぞましいディストピアの到来なのでしょうか。しかし、「監視社会」が現代社会において人々に受け入れられてきた背景が利便性・安全性と個人のプライバシー(人権)とのトレードオフにおいて、前者をより優先させる、功利主義的な姿勢にあるとしたら、中国におけるその受容と「西側先進諸国」におけるそれとの間に、明確に線を引くことはできませんし、そのように中国を「他者化」することが問題解決につながるとも思えません。



私は、このような問題を考察する上では、「監視社会」が自明化した現代において、私利私欲の追求を基盤に成立する「市民社会」と、「公益」「公共性」の実現をどのように両立させるのか、という難問を避けて通るわけにはいかない、と考えています。たとえば、テクノロジーによる管理社会・監視社会化の進展によって、社会の「公」的な領域と「私」的な領域の関係性が揺らぎつつある現在、中国社会を論じる際に一つの重要な軸であり続けた、近代的な「普遍的な価値」「市民社会論」の受容、という主題はすでに過去のものになりつつあるのでしょうか。あるいは、現代中国の動きは「監視社会化」の先端を行く事例として、日本に住む我々にとっても参照すべき課題を提供しているのでしょうか。

これから何回かにわたって、人々の経済的な欲望を開放しつつ、政治的にはますます強権の度合いを強める習近平政権下の中国を、「テクノロジーを通じた統治と市民社会」という観点から検討してみたいと考えています。

中国における「市民社会」論

さて、「市民社会」は(米国を含む)西洋社会の、そして日本のような非西洋の後発資本主義国の近代化を論じる上で、欠かすことのできない概念ですが、論者やその立場によって使い方やニュアンスが異なるため、しばしば混乱を招きやすい用語でもあります。これは、地域、および歴史的文脈においてもともと異なった概念を表していた別々の用語が、今日の日本では「市民社会」という言葉で総称されていることに起因しています。その中で、中でも冷戦の終焉以降は一般的な理解として、NGO、NPOや労働組合、あるいは宗教団体などの国家にも市場にも位置づけられない「第3の社会領域」に属する社会組織を、市民社会として理解すると言うのが一般的になっています。

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