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中国の「監視社会化」を考える(1)──市民社会とテクノロジー

ニューズウィーク日本版 / 2018年12月5日 15時30分

また、辻中豊さんと小嶋華津子さんも、「現状において、中国の市民社会組織に許された活動空間は、限定的といわざるを得ない」と指摘した上で、中国共産党第16期中央委員会第6回全体会議(2006年10月)では、「民間組織」に変わり「社会組織」という新たな概念が提出されたことに注目しています。というのも、「この呼称の変化は、「民間」という言葉に内包された「主体性とエネルギー」を否定し、団体を、共産党が領導する「社会建設」に貢献すべく再定義する動きであった」からです(辻中=李=小嶋、2014)。

それに対して李さんの方からも、反論と言うよりはむしろやや異なる立場から、中国の市民社会のあり方を擁護する議論が出されています。そこでは、中国の思想史研究の大家である故・溝口雄三の『中国の「公」と「私」』と言う本を引用しながら、例えば中国の「天の理」という概念であるとか「大同」すなわち「万民の均等な生存」と言うものに基づいた、必ずしも権力を制限すると言う観点以外のところから正当化ができるのではないか、という反応が出されています。

「中国の公観念には、『天』の観念が色濃く浸透しており、それは古来の『天理』、すなわち『万民の均等的生存』という絶対的原理に基づく。政府、国家も、世間や社会、共同も『天理』を外れてはならない」「公共性を担う存在として、国家も市民社会もその正当性は所与のものではなく、『天理に適う』ことによって担保される。天理に適う役割を示さなければ、公共性を担う資格(権威)が認められない」(李、2018)、というわけです。

しかし一方では、こういった形で、「中国的市民社会」の用語を行わなければならない、ということ自体が、中国のような非欧米社会において市民社会を考える難しさ、あるいは私的利益の追求としての市民社会の基盤の上に公共性を打ち建てることが非常に困難であることを示しているようにも思われます。

「アジア」と市民社会

さて、「市民社会」をめぐる問題は非常に扱いが難しい問題だ、というのは何も中国だけの問題ではありません。日本でも、この用語をどのように社会変革に結びつけるか、という点をめぐって盛んな論争が繰り広げられてきました。これは、一つには、地域、および歴史的文脈においてもともと異なった概念を表していた別々の用語が、今日の日本では「市民社会」という言葉で総称されていることに起因しています。



例えば、近代の「市民革命」を通じて成立したとされる自律的な市民社会にしても、一方では「法律の前での平等」の下で人々が政治に参加する「公民社会」、他方ではアダム=スミスが「商業社会」のモデルを通じて提示したような「自由な経済社会」という、二重の意味を持ち続けてきました(成瀬、1984)。このことは、近代西洋社会における「市民」が、資本主義的な市場経済の担い手(フランス語では「ブルジョワ」bourgeois)である同時に、国家主権とのかかわりにおいては、人間と市民の諸権利の主体(同じく「シトワイヤン」citoyen)でもあるという、二重性を持つ存在であったことに対応しています。

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