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中国の「監視社会化」を考える(1)──市民社会とテクノロジー

ニューズウィーク日本版 / 2018年12月5日 15時30分



たとえば、一つの典型的な事例として、習近平政権になってから大々的に繰り広げられた「反腐敗キャンペーン」が挙げられると思います。これは、身分の高い者から低いものまで、役人や政治家が私益を貪っている状態に対して、習近平主席が共産党の規律委員会を通じて厳しく取り締まり、それを通じて公共性を実現する、という政治的キャンペーンです。この一連の動きが非常に特徴的なのは、そこで実現される公共性と言うものが、あくまで私的利益の外部にあり、それを否定するものであるということです。それに対して、先ほどとりあげたような市民派マルクス主義が依拠しているヘーゲルあるいはマルクスの「市民社会」に関する議論には、個々の市民が私的利益をお互いに追求していく中で、それを止揚して国家であるとかアソシエーションといったものを成立させるという問題意識があります。つまり、私的利益を単に否定的な対象としてみるのではなく、その基盤の上に公共的なものを立ち上げるようなありかたにこそ、中国のようなアジア社会とは鮮やかな対象をなす、西洋社会の特徴があるように思います。

このように、中国社会には公的なものと私的なものが分裂しがち、であるといった議論は、もちろん私が思い付きで述べているものではありません。例えば、中国史研究の伝統の中では比較的繰り返し議論されてきたものです。

ここでは2つだけ代表的な議論を紹介しておきましょう。先日京都大学を退官した寺田浩明さんが今年になって出された『中国法制史』という本があります。寺田さんはその本の中で、中国においては法概念と言うものが「公論としての法」として規定できる、とおっしゃっています。この「公論としての法」というのは、西洋起源の「ルールとしての法」に対比される形で理解されるものです。後者は、個別案件とは独立したルールとしての普遍的なルールが抽象された形で存在しており、それが個別案件に強制的に適応されていく、というロジックによって組み立てられています。それによって法秩序と言うものが形成されていく、そのプロセスが「ルールとしての法」の特徴だ、というわけです。

それに対して「公論としての法」では、あくまでも個々の案件において「公平な裁き」を実現していくということが非常に重視されることになります。ここでいう「公平な裁き」とは、個別の事情や社会情勢によって異なるものであり、裁きを行う際にそれらの個別事情を考慮することが重要である、とされます。したがって、それらの事情、情理を考慮せず、機械的にルール=国法を適用することはむしろ否定の対象になります。そして、そういった「公平な裁き」を実現できるのは教養を積んで人格的にも優れている一部の人だけだ、というわけです。

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