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中国の「監視社会化」を考える(1)──市民社会とテクノロジー

ニューズウィーク日本版 / 2018年12月5日 15時30分



つまり、アジア的なものというのは市民社会にとっての大きな障害であり、それを打破することが重要であると言う議論を行っているわけです。これは戦前の封建的遺制、つまり天皇制を打破しなければちゃんとした資本主義が生まれないという、講座派マルクス主義の問題意識にもつながっているわけです。

ただこれはなかなか最近では正面切っては展開しにくい議論になっています。その背景としては、一つにはこれが本質主義的な文化決定論であるという批判を浴びるようになってきたと言うことがあります(植村、2010)。もう一つには、すでに述べたように1990年代以降。ハーバーマスの影響によって第3の領域として市民社会が定義されるようになってくると、当然アジアにもNGOはあるわけですから、アジアに市民社会は存在しない、と言うとそんな馬鹿な事はない、と言う批判を浴びることになります。つまりアジアに市民社会が存在しないと言う議論が時代遅れなだけではなく、政治的に正しくないと言うレッテルを貼られるようになっていったわけです。

アジア社会における「公」と「私」の関係性

ただ、私はむしろそういった、第3の領域としての市民社会論ではうまく捉えられないようなものが、中国をはじめとした「アジア的」社会の特質を、その歴史的な背景から捉え直していくことによって、むしろ光を当てることができるのではないか、という問題意識を持っています。もちろん、そういった議論を展開するにあたっては一定の注意が必要です。たとえば、市民社会と言う言葉を「NGO」なり「ブルジョワ社会」なりの何らかの実体をもったものとして規定したうえで、それが「アジアには存在しない」などと主張するのであれば、その主張が非常に違和感を持って受け止められるのもやむをえないでしょう。しかし、「市民社会」をより主体間の関係性に注目する、例えば「国家」と「民間」の関係性であるとか、「公共性」と「私的利益」との関係性などに注目すると、アジア的社会の特質というものがある程度は浮かび上がってくるのではないでしょうか。

端的に言うなら、人々の私的利益の基盤の上に公共性を築くことが、近代西洋から受け継がれてきた「市民社会」、あるいはより適切な用語を使えば「市民的公共性」の根本的な課題であるとしたら、その課題の実現が―西洋社会に比べて―著しく困難である、というところに、中国を含む「アジア的社会」がこれまで、そして現在に至るまで抱えている問題は集約されるのではないか。そのように私は考えています。

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