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中国の「監視社会化」を考える(5)──道具的合理性が暴走するとき

ニューズウィーク日本版 / 2019年2月27日 13時26分

人々が画一的で自由の奪われた生活を送る、文字通りのディストピアである『1984年』の世界に比べて、『すばらしい新世界』では人々は煩わしい家族関係や、子育て、介護などから解放され、やりがいのある仕事と不特定のパートナーとの性的関係を含む享楽的な生活を謳歌しています。

しかも、そこでは人々が己の欲望のままにふるまったとしても、決してそのことによって社会秩序が崩壊することはありません。その理由の一つとして、赤ん坊がすべて「社会的なもの」として育てられる、すなわち保育器の環境や栄養状況、並びに耳から聞かされるメッセージなどを通じて社会規範を逸脱するような欲望はそもそも抱かないように「条件付け」がなされているからです。それを支えているのが、社会階層と個人の能力をリンクさせることによって「アルファ」から「イプシロン」までのタイプが形成されて再生産され、過酷な肉体労働は最下層のイプシロンが担うなどの徹底した分業体制が敷かれているからです。

その意味では、『1984年』が20世紀初頭の社会主義のイメージに強く影響された世界観であるのに対し、『すばらしい新世界』はすぐれて資本主義的な、ある意味ではその理想形だとさえいる未来像を示している、と言えるでしょう。いずれもディストピア小説の古典的名作といわれながら、『1984年』はその後継作品を挙げることが難しいのに対し、『すばらしい新世界』の世界観はその後の多くの作品に受け継がれている──比較的最近の傑作としては伊藤計劃さんの『ハーモニー』があげられるでしょう──のも、この作品が人々に広く共有されている資本主義的・功利主義的な価値観をベースにしながら、その行き着く先を見事に暗示しているからかもしれません。 

さて、これまで述べてきたように、私は、人々のより幸福な状態を求める欲望が、結果として監視と管理を強める方向に働いているという点では、現代中国で生じている現象と先進国で生じている現象、さらには『すばらしい新世界』のようなSF作品が暗示する未来像の間に本質的な違いはないと考えています。憲法学者の山本龍彦さんは、中国の芝麻信用を例にとりながら、ビッグデータを活用した個人の信用スコアが普及するにつれ、ネガティブな評価を受けた人々の活動範囲が狭まり、階層が固定化される「バーチャル・スラム」という現象が生じる可能性がある、と警鐘を鳴らしています(山本、2018)。このAIとビッグデータを通じた「バーチャル・スラム」の固定化と、「アルファ」から「イプシロン」までのタイプが再生産されるという『すばらしい新世界』の設定までは、すでにあと少しの距離なのではないでしょうか。

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