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菅直人元総理は「3.11」のとき、どう決断し、どう行動したのか? 10年経ったいま、福島第一原発事故を振り返る

ニコニコニュース / 2021年6月24日 11時50分

 東日本大震災から10年。今なお福島県・宮城県沖では余震が発生し、さらに東京電力福島第一原発事故の影響でいまだに帰還できない住民は約4万1千人(復興庁調べ・2月)を数えます。

 あれから10年の節目である2021年3月、ニコニコでは、『【3.11から10年】その時、総理はどう決断したか 菅直人元総理インタビュー』と題した生放送を実施。

 番組には、当時、総理大臣を務めた菅直人元総理、朝日新聞で原発事故の調査報道を行ってきた青木美希さん、原発事故当初から東電会見などを取材してきたフリーライターの木野龍逸さん、元NHKアナウンサーで現在はジャーナリストの堀潤さんが出演しました。

 本稿では、菅元総理を中心に、報道に携わってきた3名のジャーナリストと共に、事故発生当時の様子を時系列で振り返った生放送を紹介します。

※本記事はニコニコ生放送での出演者の発言を書き起こしたものであり、公開にあたり最低限の編集をしています。

※記事中の役職名および肩書は2011年当時のものも含まれています。

左から、菅直人元総理、堀潤さん、青木美希さん、木野龍逸さん

■原発の事故は100%人災だった

堀潤さん(以下、堀):
 東日本大震災、原発事故から11年目が始まりますが、事故の原因は本当に究明されたのでしょうか。
 そして、先日も東日本大震災の余震が原発を襲いました。現在の第一原発の本当の状況が世間に伝えられているのかどうかなども含めて、当時を知る皆さんと今を生きる私たちはさまざまなものが去来するこの1年だったと思います。

ジャーナリストの堀潤さん。311当時はNHKでアナウンサーをしていた

 復興庁の調べでは、福島第一原発の事故の影響でいまだ帰還できない方々というのはおよそ4万1000人を超えています。

 ニコニコはこの震災をきっかけに、2011年3月17日から毎日官邸に入って官房長官会見を生中継しています。

 10年目という節目の年を迎えて、ニコニコでは当時、総理大臣として東京電力福島第一原発の事故という前代未聞の事態に直面していた菅直人元総理とともに、当時のタイムラインに沿って振り返っていきたいと思います。

 第94代内閣総理大臣で、現在は立憲民主党最高顧問の菅直人さんです。よろしくお願いします。

菅直人元総理(以下、菅):
 よろしくお願いします。

第94代内閣総理大臣。現在は立憲民主党最高顧問の菅直人さん

堀:
 菅さんは最近、こちらの『原発事故10年目の真実』という本を出版されました。
 当時、どのような判断が必要だったのか、なぜ事故が起きていったのか、何をするべきなのか、新しいエネルギー政策とは何なのか、菅さんご自身がこの10年を振り返りながら未来を展望する内容です。
 菅さんご自身はどういう思いでこれを書かれましたか。

菅直人元総理の著書『原発事故10年目の真実』(本の詳細はこちら

菅:
 やはり10年目ということで一つの区切りですから、どちらかといえば前向きな、簡単に言えば原発がなくても、化石燃料を使わなくても、十分再生可能エネルギーで電力はまかなえるんだという前向きな話を中心にしつつ、当時のこともきちんと述べました。

堀:
 私もこの10年、原発事故で避難を強いられた方々の訴訟の取材を続けてきたんですが、やはりまだ戦ってます。
 そして地裁、高裁と判決が出ていく中で、あれは天災とはいえない、人災だったんだといった判決を下す裁判所もあります。

 菅さんご自身はあの事故に直面されて、未然に防ぐことができた事故だったのかどうか、10年経って今、改めてどう思われてますか。

菅:
 あれは100%人災です。日本は何回も地震もあったし、津波もあったんです。
 端的に言えば、緊急用の電源が一番低いところに設置されてました。それだけでも、免震重要棟のある高さ30メートルのところに設置されてあれば、少なくとも全電源喪失には至ってません。

 私、なぜあんな低いところに置いてたか少し調べてみたんですが、1号機はGE(世界最大のアメリカ合衆国の総合電機メーカー「ゼネラル・エレクトリック社」)が100%作ったんですね。

 アメリカはあんまり海のそばに原発を置かないので津波の心配がないんですね。
 しかし、日本はあの地域を含めて津波の心配は長年やってるわけですから、そのことを考慮に入れないで原発を作った、その点だけからいっても完全な人災ですね。

堀:
 あれから10年、事故を防ぐ仕組みがきちんとできているか、電力会社は変わったか、そして国の管理は変わったか、市民社会の意識は変わったか、いかがでしょうか。

菅:
 いくつか変わった面もあります。
 例えば、原子力規制委員会というのは、今は経産省とは全く独自の非常に独立性の高い、NRC(アメリカ合衆国原子力規制委員会)に近いようにかなりの力を持ってます。そういう改善というかよくなった面もあります。

 しかし、必ずしも変わっていないところもたくさんあります。

 これから東電がやろうとしてる中でも、事故炉の廃炉の問題やあとで問題になる汚染水の問題。
 あと20年、30年経ったらもうきれいな更地に戻せるようなことを言ってますけども、私が見る限り、チェルノブイリの例を見ても、あそこは35年経っても、まだ大きなドームをかぶせて、あと100年間放射能が下がるのを待つという状態です。

 私は残念ながら福島原発事故も、事故炉の跡を更地にして、他の目的に使うというところまではそう簡単にはいかないと思ってます。

堀:
 私自身も東日本大震災、原発事故を機にNHKを退職しました。
 当時、取材をする中で、いまだにやはりきちんと情報が表に出ていないこと、明らかになっていないことは山積です。

 今日はじっくりとお話を伺っていくにあたって、お二人のジャーナリストをスタジオに招いています。
 まずは朝日新聞の青木美希さんです。青木さん、よろしくお願いします。

青木美希さん(以下、青木):
 よろしくお願いします。青木と申します。

堀:
 青木さんは北海道新聞の在職中に、北海道警裏金問題を手がけられて、チームで新聞協会賞を受賞。
 そして、朝日新聞に入社してからは、まさに原発事故の調査報道を担ってこられました。
 プロメテウスの罠班、手抜き除染スクープ、こちらも新聞協会賞を受賞と。本も今日お持ちいただきましたよね。

青木:
 はい。こちらです。

青木美希さんの著書『地図から消される街』

堀:
 さまざまな著作物ございますが、今日、手元に持っていただいたのはどういう本ですか。

青木:
 これは『地図から消される街』という名前でございまして、避難者の方の言葉から取っております。
 このままだと故郷は地図からぬぐい去られてしまうという声です。

堀:
 青木さんご自身は一人のジャーナリストとして、あの原発事故には何がまだ解明されていないと思われますか。

青木:
 まだまだだと思います。
 今日もお伺いしようと思ってますけど、例えば、2号機の格納容器でどうして圧力が下がったかっていう話って、今回、1号機の水位が下がってる話と、実は同じ箇所から漏れたんじゃないかっていう話が現場で出てるんですね。

 つまり、原発の弱点がまだわかってないという中で再稼働が進んでいますよね。というところとか、もうわからないことだらけなのにどうして進んでるんだろうと思います。

堀:
 そうですよね。津波対策は議論されていますけれども、そもそもあの3月11日の大きな地震によって、原発そのものがどれぐらい傷んでいたのか、当時の原発作業員が残していたホワイトボードのメモにも音が漏れているとか、そうした記載があります。
 ただ、それはまだ検証されてませんよね。

 そうしたことも含めて、今日はいろいろぜひお話聞かせてください。よろしくお願いします。

青木:
 はい。一つだけ言っていいですか。
 私、東電会見によく出席していたんですけれども、そこでニコ動の方に随分助けられまして、会見で質問しても「そういう事実はない」とか、「うちは適正にやってる」とか、東電さんがはぐらかしたんですね。
 何度も何度も質問したんですけれども、会見を中継していたニコ生のコメントで「メロンちゃん頑張れ」と何回も書いていただきました。なぜ私がメロンちゃんなのかというのはいまだわからないんですけど(笑)。

堀:
 そこも未解明なんですね(笑)。

青木:
 そうですね(笑)。大変助けられました、ありがとうございました。

堀:
 そして、もう一方ご紹介しましょう。
 フリーランスライターの木野龍逸さんです。木野さん、よろしくお願いします。

木野龍逸さん(以下、木野):
 よろしくお願いします。

堀:
 僕もフリーランスになってすぐ木野さんとお話をするようになって、いろいろ助けていただきました。

木野:
 いやいや、とんでもございません。

堀:
 木野さんはずっと会見も出続けて、私たちにもわかりやすく翻訳をするかたちで発信を続けてこられましたよね。

木野:
 そう思っていただけると大変うれしいです。

堀:
 木野さんは原発事故当初から東電会見、そして、原発訴訟問題などを取材されてこられたジャーナリストです。
 担当がころころ変わってしまう大手メディアの記者たちからは「歩くデータバンク」と言われ、厚い信頼を寄せられている存在です。

 そして、書著『検証 福島原発事故・記者会見』を1から3まで出されています。こちらにはもう本当に膨大な情報が発信されて、それを検証しなきゃいけないのはなかなか大変な作業だと思います。

木野龍逸さんの著書『検証 福島原発事故・記者会見』

木野:
 すごく大変すぎて、3冊やって疲れてしまいました。

堀:
 当時は、どのような点が一番大きな課題だと思って会見に臨んでらっしゃいましたか。

木野:
 端的に東京電力や、あと、最初は保安院ですけど、事故の情報がちゃんと出るかどうかという話ですね。
 「結局、東電から官邸に情報が伝わらなかった」っていう話は、枝野さんもお話しされてましたし、菅先生もそういうお話されてます。
 そのような官邸にも伝わってない話は、当然、一般の僕たち市民にも伝わってないっていう、そこが一番大きかったかなと思います。

堀:
 当然、もうこの10年間の間で幹部が変わったりとか情報公開、メディアへの対応を変えるんだというふうに電力会社側は説明もしてきました。

木野:
 言ってますね。

堀:
 木野さんからご覧になっていかがですか。

木野:
 あんまり変わってないと思いますね。

堀:
 どういった点が?

木野:
 何を出すべきかというのを彼らの中で判断はしてるんですけど、判断基準がことごとく間違ってるような気がします。
 要するに、それは彼らが出したい情報を出してるだけであって、必要な情報、われわれが必要な情報と、そのギャップが埋まってないのはこの10年、あんまり変わんないかなと思います。

菅:
 その点、いいですか。東電の事故が起きたときの24時間、テレビ会議システムが東電本店と各原発のサイトとはつながってるはずなんですが、確か事故発生からの24時間分のテレビ会議の画像はいまだに出てきてません。

堀:
 一部、マスクかけられていたり、抜粋されたりしたものが公開されているだけで、全体というのは公開されていませんよね。

菅:
 そうです。それから政府事故調でいろんなヒアリングがありました。
 私などもヒアリングを受けて、それを公開していいですかと言われたので、私などは「そのまま公開して結構です」と言って公開されました。

 しかし、東電関係者はヒアリングは受けられたはずなんですが、私が知る限りではその内容はマスコミがスクープした吉田調書以外は全く公開されてません。

堀:
 なぜ公開されないんでしょうか。

菅:
 それは東電に聞いてください。私はこれだけの事故を起こした当事者として、そういうところでヒアリングをしたわけですから、それはきちんと公開すべきだと思ってます。

堀:
 菅さんが上梓された今回の本の中には経産省サイドとの折衝、つまり政府の首脳であっても現場の役所とどう情報共有していくのかというのは非常に苦労があったという具体が書かれています。

 東電の記録の会議の様子を見ていると、一方で東電の現場の広報がこうしたことを広報したいと上役に諮ると「ちょっと待ってくれ」と。
 そして、上役がどこかに諮ったと。

 そうすると今度は官邸が「これは出さないでくれ」「プレスはしないでくれ」「プレスを止めてくれ」と言っていると。

 その官邸はって話もよくよく聞いてみると、経産省の機関であったりとかもする。あのときには何でこの情報が出せないんだという現場のもどかしさもいろいろあったと思うんです。
 実際にはどのような状況だったんでしょうか。

菅:
 私もすべてを知ってるわけじゃありません。
 当時、東電の元副社長だった武黒フェローが官邸に来られてましたが、その人が言ったことが、官邸もしくは総理である私が言ったように一般の方には誤解されてます。

 ですから私が「(海水注入を)止めろ」と言ったんではないのも、例えば、その武黒さんという人が「いや、どうも海水注入には、どうもいろいろぐちゃぐちゃ言ってるから止めろ」と言って、吉田所長に伝えたなんていうのは、こちらは全く知らないし、結果としては、吉田所長はそれを聞かないで海水注入を続けたんです。

 しかしそのことで、私は当時の自民党からも「何でそんなことやったんだ」と相当責められたんですが、私はやってないのにやったことにされる。

 今言ったように「官邸」という言葉が、「官邸のメンバー」というだけではなくて、「東電から来てた人や他の人」まで含めて「官邸」という言葉で語られたことがかなり誤解を生んでますね。

堀:
 今日の番組は3部構成になっています。

 第1部は東京電力福島第一原発事故のタイムライン、改めて皆さんにあの日の様子を振り返っていただきます。

 第2部は危機管理です。そして第3部は東電福島第一原発とエネルギー政策の未来と題して、これからのことについても伺っていきます。

※本稿は第一部「福島第一原発事故のタイムライン」のみとなっています。続きはニコニコ生放送の番組をご覧ください。(この番組は、アカウント登録不要でどなたでもタイムシフト視聴できます。ただしスマートフォンから視聴する場合、ニコニコ生放送アプリのインストールが必要です)

・【3.11から10年】その時、総理はどう決断したか 菅直人元総理インタビュー
https://live.nicovideo.jp/watch/lv330444669

本番組のプログラム

 第1部では事故発生から約1週間のタイムラインの中で、特に重要なポイントをオンサイト(原発の敷地内で起きていること)とオフサイト(原発の敷地外で起きていること、各地域で起きていること)を分けてお伝えしていきましょう。

 専門用語などは木野さんに解説役を担っていただこうかと思います。よろしくお願いします。

木野:
 よろしくお願いします。

■一番困ったのは東電からの情報がきちんと伝わってこなかったこと

堀:
 1枚目のパワーポイントの資料です。2011年3月11日14時46分、「東北地方太平洋沖地震」発生、当時はこうした呼び方をしていました。

 オンサイト関連では、地震直後に運転中の第一原発の1号機から3号機が自動停止。
 約1時間後に1号機から5号機が全交流電源を喪失。

※事故当時は1~5号機の全交流電源を喪失と報告されたものの、4月24日に1~3号機と訂正されている

 オフサイト関連では、19時3分、原子力緊急事態宣言。
 21時23分、原発から半径3キロに避難。半径10キロに屋内退避を指示。

 私はこの頃はNHK職員でしたのでニュースセンターに詰めていました。ちょうど夜、日づけが変わったぐらいでしょうか。
 僕の携帯電話に電話が入りまして「堀さん、覚えてますか。新潟でお世話になった者です」と。ちょうど新潟の柏崎刈羽原発が中越沖地震で黒煙が付属の建屋から出たときに取材をさせてもらった電力関係の方だったんです。

 「今、報道されている内容よりも原発の状況は厳しいんです。私たちもここ新潟から長野に避難します」と。「NHKさんではなかなかそうしたことを伝えるのは難しいかもしれませんが、原発の状況が厳しいというのをどうか伝えてください」と言われました。

 ただ当時、本当に混乱している中で、どの情報が正しくて、どの情報が正しくないのかという整理も行き届かなかったので、国の発表や安心安全情報につながるような呼びかけしか、せいぜいできなかったなという思いもあります。

 刻々と変化する中で情報をどのように共有していくのかというのも、非常にこの10年間、反省と、そしていまだに問われるテーマだなと思っています。

 菅さんは、この14時46分、その前後含めてどういう状況でいらっしゃったんですか。

菅:
 実は参議院の決算委員会というところに出席してまして質疑を受けてました。
 そうしたら、14時46分に揺れが大きくて、天井にぶら下がっている大きなシャンデリアが大きく揺れて、これ落ちたら下にいる人大変だなと思って見上げてました。

 5分か6分経ったときに委員長が「今日はこれで休憩にします」と言ってくれたので、すぐに部屋を出て官邸に戻って、それから地下の危機管理センターに駆け込んだ。それがまさに地震が起きたその瞬間の行動です。

堀:
 第一原発の事故に至る過程では、当然、複合災害でした。大きな地震と津波がありました。
 当初はそちらの対応に追われていたかと思うんですが、実際にはどうでしたか。

菅:
 まずは地震、津波の対策本部を立ち上げて、それから少し経って原発の対策本部を作ったんですが、実はほとんどメンバーは同じで、場所も同じ危機管理センターの多少分かれても大体一緒にやってました。

 そういう点では、最初の情報はやはり地震であり津波でした。原発事故の問題はそのあとにどんどん入ってきました。

堀:
 そのときには、菅さんご自身はどのように、その事態をご自身の中で受け止めてましたか。

菅:
 原発についての情報で言うと、最初にきたのは電源がまだ確保されてると。電源が確保されてるということは冷却機能が継続しますから、一応安全なんですね。

 一番背筋が寒くなったのは全電源が喪失したという知らせがきたときです。
 つまり全電源が喪失するということは、メルトダウンが起き得るということですから。

 そして実際、今になってみたらわかってますが、その日の夜中にはメルトダウンどころかメルトスルー、つまり溶けた燃料がこんな20センチぐらいの厚い圧力容器の底を抜いて格納容器の下まで落ちるという、これは世界で初めての事故です。

 そこまで至ってたのはその日の夜なんです。ただ当時はまだ東電自身も、あるいはそこからわれわれに入ってくる情報もまだそこまではいってないと。原子炉の水位がだんだん下がってきてるという情報でした。

堀:
 私が深夜に受けた電話、その電力関係の方々の中では情報が早く共有されていた様子でした。
 実際には第一原発の中で働いている方のご家族などが連絡を受けて、そして自治体によっては、国からの指示が出る前に避難を始めようという判断をした地元の自治体もありました。

 そうした現場の情報が官邸になかなかうまく伝わっていないという状況は、当時はわからなかったということですか。

菅:
 現場といっても、これは福島第一原発という東電の工場の中で起きてるわけです。だから東電の関係者の方は、それは情報が取れたかもしれないけど、東電の中で起きてることを私たちが外から見てもわからないんです。

 だから東電から話を聞かなきゃいけない。そのために早い段階で原発の専門家である元副社長の武黒さんが当然、東電本店なり東電の現場と話をして、そこの状況を伝えてくれると思ったんですが……。

 のちほど話が出るかもしれませんが、私が翌日の朝、現場に飛んだのも、「ベントをやらなきゃいけない」「ベントを始めます」と言ってきているのに、4時間待っても始まらないんです。
 「なぜ始まらないんですか」と武黒さんに聞いたら「わからない」と言われたんです。

 今考えてみたら、すべてテレビ会議は東電本店とつながってるんですから、武黒さんであれば吉田所長と面識があるわけですから、「なぜ始まらないんだ」と聞けばいいのに、こちらに来るのは「わからない」です。わからないでは本当に困るわけです。

 これはやはり一回は、現場の責任者と話をする必要があると判断して、私は12日の朝、ヘリコプターで現地に飛んで吉田所長に会いました。

 会って初めて、ベントは普通だったらスイッチ一つで開くんだけど、全電源が喪失していて弁が開かない。その上、非常に放射線が高くなっており、作業は人が入れ代わり立ち代わりしてやらなきゃいけなくてそこで大変苦労してると。しかし「最後は決死隊を作ってでもやります」と。

 私はその一言を聞いて、「わかりました、頑張ってください」と言って、次に津波の視察に回りに行きました。

 ただ、そういうふうに最初に情報がわかるのは東電自体なんです。そこから情報が流れないで他からわかる情報というのはほとんどない。とにかく一番困ったのは東電本体からの情報がきちんと伝わってこなかったことです。

堀:
 原子力安全・保安院はじめ、所管省庁、役所はどうしてたんでしょうか。

菅:
 原子力安全・保安院は本来ならアメリカで言うNRCのようなものであるべきなんですが、残念ながら日本は経産省の中の資源エネルギー庁の下部組織なんですね。

 そこから原子力安全・保安院の院長に来てもらって話を聞いたんですが、どうもよく理解できない。
 理解できないっていうのは私の理解力がないか、説明のほうが悪いかなので、「あなたは原子力の専門家ですか」と院長に聞いたら、「いえ、私は東大の経済学部を出てます」と。

 つまりですよ、原子力の行政で言う一番の現場を、安全性を監督し、コントロールする立場にある行政のトップに、原子力の専門家でない人が就いてるっていうのは本当にびっくりしました。
 また事故発生時点には原子力安全保安院のメンバーが何人か福島第一原発のサイトにいたのに、事故発生直後に現場を離れていたことが、その後判明しました。

堀:
 菅さんがあそこで強く言わなかったら、東電側は当初、第一原発が深刻化する中で撤退というのも主張していました。
 それが吉田さんが「決死隊を作ってでもやります」というその現場の判断もなかったら、10年後の未来があるかどうかというのは非常に分かれ道の一つではありました。

菅:
 撤退の問題については、15日に清水社長が海江田経産大臣に撤退したいと言ってきて、それを聞いた海江田大臣が私のところに来て、それで清水社長を呼んで私から「撤退はありませんよ」と申し上げたんです。

 なぜそう言ったかというと、私の頭の中には早い段階から小松左京さんの『日本沈没』というのが頭に浮かんでました。

 その後、原子力委員会の委員長の近藤駿介さんから250キロ圏の避難ということを最悪のシナリオとして提示してもらいました。

 いずれにしても原発というのは特殊な装置ですから、これが普通の火事ならいくら大きなコンビナートの火事でも、全部逃げて1週間か10日か20日か待てば燃えるものがなくなるから消えるんですね。

 しかし、原発というのはそうはならないことを私はよく知ってましたから、ここで東電の関係者が全部避難されたら、これはもう広がる一方だと思ったので、ここは大丈夫だから残ってくれと言ったんじゃないんです。

堀:
 青木さん、3月11日から12日にかけて、まず最初の判断が問われるタイミングでした。このことについて、菅さんにぜひ質問があればお願いします。

青木:
 官邸の対応で、「東電から情報が入ってこなかった」というところについてなんですけれども、もともと官邸もこの原発の安全神話により体制が整っていなかったということの証左だと思うんですが、振り返るといかがですか。

菅:
 官邸自体がそういう準備があったかと言われれば、おっしゃるとおりだと思います。

 ただ行政というのは幅が広いですから、一応何か起きたときにはその担当者がいるわけですよ。
 ですから先ほど申し上げたように普通、原発の事故に関して言えば、経産省の原子力安全・保安院が担当してますから、そこから官邸に「今、こういう状況だ」とかという情報が上がってくるのが、本来の行政の姿なわけです。

 もちろん官邸があらかじめ原発事故を想定した体制を組んでたかと言われれば、それはそこまでは組んでませんでした。

 しかし一応、役所としてはそういう位置づけになってたもんですから、その情報を待ってたんですけども、的確な情報がなかなか上がってこなかったというのが事実関係です。

堀:
 木野さん、いかがですか。

木野:
 情報の流れの中で、実際にその情報が全然入ってきてないことに気がついたのは、割に早いタイミングなのでしょうか。

菅:
 やはり最初のベントのやり取りです。あとでわかったのは、当時、会長は中国で、社長は関西で、会長も社長も東京にいなかった。

 会長、社長は原子力の専門家ではありません。しかし少なくともトップ2が東京の本店にはいなかった。多分24時間はいなかったんでしょう。これもあとでわかったことです。

 そういう中で、私たちが一番頼りにしたのは、こちらからお願いしてやってきた武黒さんという元副社長。これは原子力の専門家ですから、この人が東電の情報の窓口になるということで、ほぼ官邸に常駐に近いかたちだったんです。

 しかしその人から、先ほど言ったように「午前1時頃からベントをやる」と「3、4時間の間にはやるから」と言ってるのが、何時間経ってもやらないという、そういう意味でそれも含めて言えば、やっぱり東電からの情報がこなかったということです。

堀:
 21時23分に第一原発から半径3キロ避難、そして10キロに屋内待避の指示と、これ以降いわゆる同心円での避難区域というのが次々に設定されていくわけです。

 先ほどの事前の備えという話でいくと、私たちは結果を知っているので、風に揺られて放射性物質というのは西へ東へ南へ北へと行ってしまうと、この同心円っていうことの判断というのはどういうことを根拠にしていったのでしょうか。 

菅:
 まずもう一つ、原発の安全を監督する機関として原子力安全委員会というものがありまして、その委員長の斑目さんという原子力の専門家の方にも官邸に来てもらってました。

 避難の問題は、本来の予定では、現地対策本部が自治体関係者を集めて判断することになってたんですが、地震と津波が同時ですから、自治体関係者が集まれないんですね。それで結果的に官邸というか、原災本部で避難範囲の判断をやらざるをえなくなったのです。

 ですから私は原子力安全委員会の斑目委員長に意見を聞きました。初めのうちは3キロとか5キロ。つまりはそういうことでいいだろうと。
 実は日本で起きた原子力の事故で言うと、東海の被爆した事故もありますが、せいぜい数百メートルといった距離なんですね。

 ですからそういう意味で、のちほど多分出てくるんでしょうが、どちらのほうに風が流れるかというそういうシミュレーションモデルもあったということをあとで知りました。

 そういうものに基づいての判断というのは、その段階ではもちろん私自身も知りませんでしたし、その原子力安全委員会の委員長からも、そういうことの提示がなかったので、同心円状で3キロ、5キロといったことを、まずは決めていったということです。


■準備不足はあったけど、現場はできることをきちんとやっていた?

堀:
 放射性物質の拡散に関して鍵になるのはやはりまずベントです。タイムライン1日進めます。

 3月12日の午前1時半頃です。

 オンサイト関連では、東電が1号機の圧力が上昇しているため、ベントをさせてほしいと官邸へ要望。

 ベントというのは、中のものを外に出していく作業になりますよね。菅さんと海江田経産大臣がベントを了承。

 そして3時6分、海江田経産大臣と寺坂保安委員長がベントについて共同会見。東電の小森常務から直ちに実施可能などの発言。
 余震、暗闇、高線量などで手動でのベントの準備作業に時間を要す。

 そしてオフサイト関連では、5時44分。ベント実施に備えて半径10キロの屋内退避を避難指示に変更。

 そして9時35分、枝野官房長官が記者会見で避難指示を発表。「避難は万全を期すため」などと説明をしていたということですね。

 実際、東電の電話会議の様子を見ていると、東電のほうではもう早い段階からかなりの高線量の放射性物質がベントによって広範囲にわたって放出されるというのは、試算上はしていたようでした。

 そういうことも含めて、このときにはどのような情報が入って、どのような判断をしたのか。改めてベントに向けてはどうだったのか教えてもらえますか。

菅:
 まさに今、堀さんが言われたようなことが東電から事前に説明があれば、それはそれとして判断材料になるわけですけども、東電からは先ほど言ったように「ベントをやらしてもらいたい」と、実は原発のオペレーションそのものの責任は電力会社なんです。

 しかし住民の避難の範囲を決めるのは原災本部なんです。ですからベントをやれば必ず放射性物質が出ますので、どうしても避難の範囲を広げなきゃいけないから、こちらに了解を求めてきたというところまではよくわかるわけです。
 しかしそれ以上の状況だということは何一つ伝わりませんでした。

 ちょっと先になるかもしれませんが、それで先ほど言ったように私が現場に行ったわけですが、例えばの話、そのあと帰ってきたときに、14時過ぎでしょうか、官邸で秘書官から「総理、テレビをつけてください」って言うからテレビをつけたら、1号機がボーンと爆発してるわけですよ。

 あとで聞いたら爆発してから1時間半ぐらい経ってるんですよ。1時間半経ってるのに東電からはそのこと自体も連絡がこないんですよ。

 そういう行き違いというよりは、事実関係を私のいるところに伝える機能はほとんど麻痺してました。東電は。

堀:
 木野さん、ベントについて少し補足の説明をしていただきたけますか。

木野:
 ベントというふうによくいろんなところで言いますけれども、要するに格納容器というのがあって、その真ん中に原子炉があって、その中に燃料は入ってるんですね。

 この中で冷やせないと燃料が溶けてしまって、溶けると放射性物質を含んだものがこの外の格納容器のほうに出てきます。
 そうすると中の温度が上がって中の圧力がどんどん高くなっちゃうわけですね。

 あまり高くなるとこの格納容器が破損してしまって、破損するとさらに放射性物質が外に出てしまうので、それを防ぐために意図的にベントラインを使って、煙突から放射性物質を人為的に出す作業というのがベントです。

 細かい話を言うと、直接出たり、この水の中を通したりといろいろあります。ただこの間にここにもいくつかモーター(上図だと黒いマーク)があって、そこにいろいろ弁がついてるんですね。
 弁がいっぱいついていて、その弁を組み替えていくことで配管のラインを構成して外に出るようにします。

 普通だったら電気で動かせばいいんですけど、この時は電気がないので12ボルトのバッテリー、車のバッテリーをはずして、つなぎ替えて動くようにしたりとかいう作業を、この建家自体が真っ暗な中でやっていたのが相当大変だったのかなというふうに思います。

堀:
 東京電力の経営幹部の情報伝達や組織とのかかわり方には大きな問題があります。
 一方で、この暗闇の中、高放射線量の中、津波被害と余震の中、このベントに至るまでの作業員の方々は……。

木野:
 作業員は大変だったと思うんですよ。
 結局、現場は現場でやることはその場でできることは当然やっていたと思うんですね。ただ準備不足はもちろんあったと思います。

 それは福島第一は三つがメルトダウンして福島第二は問題がなかったわけですから、ただ津波の被害の影響の差もありますけど。
 そのあとの対応に1Fと2Fでは相当、対応が違っていたので、その辺はあるにせよ、現場ではそれでもやれることはやっていたのかなとは思います。

 ただ一方で、そういう何をしていたかを含めて情報が全く外に出ていなかったというのは本当にそのとおりで、今でもよくわかんない状態なので、ちょっとその辺ははっきりさせておかないと次の事故が防げないと思います。

堀:
 今でもはっきりしていないというのは理由はどうしてですか。情報は公開されていないからですか、それとも記録がないからですか。

木野:
 情報が公開されてないですね。あとは今言ったように記録がないと。
 要はテレビ会議の映像も事故から24時間分というのは音声が全然残ってないんですね。出てきたのはようやく次の日になってからなので。

堀:
 そうか、直後の24時間はないんですね。

木野:
 音声がありません。本当にないかどうかわかんないですよ。
 東電は「音声はない」というふうに言ってるんですけれども、結局そのあとも音声が途切れ途切れだったりして、要するに検証ができない状態になってしまってるので、それはちょっといかがなものかなとは思いますね。

堀:
 青木さん。質問ぜひお願いします。

青木:
 はい、先ほど。12日ちょっと過ぎても大丈夫ですか。

堀:
 まず12日の範囲内でお伺いできたらと思います。

青木:
 はい。11日のときからもうやってたと思うんですけど、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の話でも大丈夫ですか。

堀:
 どうぞ。

青木:
 同心円状の避難についてSPEEDIの情報があれば違う判断があったと思われますか。
 そしてSPEEDIの情報は官邸が23日になってようやく公開しましたけれども、菅さんのお耳に入ったのはいつでしょうか。
 補佐官の方々が結構、斑目さんのところに出入りされていたと思うんですけれども、官邸スタッフはいつ知ったのかということについてお伺いしたいです。

菅:
 まず、私自身はSPEEDIというのは相当あとになって説明を受けるまでは、私自身が事前に知ってたかというと全く知りませんでした。

 あとで聞いてみると、今言われたようにいろんなシミュレーションモデルで、確か文科省の管轄でそれを管理してたわけですね。ですから早い段階から知ってた人はおられたでしょうけども、私自身は全く知りませんでした。

堀:
 文科省が管轄して、そのあと私もなぜSPEEDIが早く公開されなかったのかというのが相当いろんなところでも突っ込んだりしたんですけれども、そもそもその後の発表では「いや、SPEEDIは公開しなかったとしても使い物になってなかったんだ」というような言い方をしてましたよね。きちんと計測ができてなかったんだとか。

青木:
 それはいろいろ見方があってですね。使えた部分もあるし使えなかった部分もあるし、ただ風向きが15日はこう伸びてましたねっていうのは見られるっていうことですね。

堀:
 そういう情報がもし共有されていれば、まさに住民の皆さんが放射線の高いほう高いほうに逃げなくてもよかったんじゃないかっていう、そういう指摘でしたよね。

青木:
 はい。

菅:
 それはそのとおりで、1日か2日後ですね。
 逆に海の側から北西に流れて、それで飯館村のほうにかなり高い線量の放射能汚染物質が行ったわけで、その段階でそれを警戒することができれば、もう少し何らかの対応ができたと思いますけれども。

堀:
 菅さんの周り、例えば文部科学大臣をはじめ、そしてもちろん電力会社、経産省、原子力関係の専門家、つまりベントを行うということは風によって放射性物質の拡散の状況が変わってくるからこういう対応が必要だとか、そういうこと進言する人や、そういう情報を持ってくる人はいらっしゃらなかったっていうことですか。

菅:
 少なくとも最初の1日、2日、3日の中で、私は残念ながら事前の知識を含めて、そういうコンピューターのシミュレーションを文科省が持ってるっていうのは知らないし、「こういうものがあるから使ったほうがいいですよ」ということを誰かが言ってきたかというと、残念ながらその時点では私に対して言ってきた人はいなかったので、わかってる人がもっと早くそれを使って、ある程度の予測ができればよかったと思いますが、そこは大変申し訳ないと思ってます。

堀:
 文科省のほうはいろいろ把握はしていたようですね。

木野:
 当然、文科省はそれはわかっていて自分たちは使いながらモニタリングカー走らせて、高いところをピンポイントで測ったりはしてたので、彼らは把握してたんです。

 それで、さっきのSPEEDIが使えるか使えないかの話で言うと、今回の使い方に関してはSPEEDIのマニュアルがあるんですね。どうやって事故のときにどう使うかっていう。そのマニュアルに従えば本来は使っていたはずのものだったんです。

 だからそういう意味では明らかにマニュアル違反の使い方をしていて、細かい話をすると「使えなかった」っていうのは、要するに原発からどのぐらいの量が出てるのがわからない、その情報がないので使えなかったっていうんです。

 しかし、マニュアルではそういう状態のときには、単位放射放出量といって、1時間当たり1ベクレル出たことにしてシミュレーションしていくっていうのが決まってるんです。

 だから11日から動かしていたので、しかも海外でもそういう使い方をしてる部分はあるので、そういう意味では明確に今回のマニュアル違反だった部分があるというふうに僕は理解してます。

堀:
 どこのエラーだったと考えればいいですか。

菅:
 いろんな問題があるので一概に言えませんが、今のSPEEDIの問題で言えば、そこまで私、詳しいこと知りませんでしたけども、そういう単位量が出る。つまり私もそのあとで聞いたのは「どれだけ出たかわからないから使えなかったんだ」みたいな説明を聞きましたけども、その時点で言えば、単位量が出たとしたらどうなるかっていうことができるのは、文部科学省だったと思います。

■最後は命を懸けても「決死隊を作ってでもやる」という吉田所長の言葉

堀:
 そして時間を進めましょう。

 オンサイト関連、総理らが、総理官邸を出発して第一原発に向かいます。
 先ほど冒頭、菅さんから説明がありました。現場の実態を直接見聞きする必要があった。それだけ東電から情報が上がっていなかったということでした。

 7時10分、菅総理が福島第一原発に到着。
 8時、福島第一原発を出発。
 8時37分、東電が福島県に避難状況を確認のうえでベント実施を連絡。
 14時30分、1号機はベントを実施。

 オフサイト関連ですが、原発建屋の周辺、敷地外です。福島県がダストサンプリング実施し、ヨウ素131、セシウ137などを検出。原災本部事務局はこの結果をほとんど公表していませんでした。すべて公表されたのは6月です。一部のデータは地震被害情報と同時に公表されています。

 住民の皆さんにとって、周辺住民の皆さんにとって一番大事な情報は公開されていなかったということでしたよね。

 原子力安全・保安院が事故評価を国際原子力・放射線事象評価尺度(INES)のレベル3と国際原子力機関(IAEA)に報告をしたという状況でした。

 本当にこの情報共有の在り方は悔やまれる点が菅さんご自身いろいろおありなんじゃないかなと思いますが、住民の避難に向けて、本当は両輪で必要なこの情報というのが公表されなかったというのは、いったい何が起きてたんでしょうか。

菅:
 先ほど申し上げたように、官邸の中でも、班目原子力安全委員長といろんな状況、わかった範囲の状況を把握して、3キロと5キロとか広げて一定指示してたことは事実です。

 ただ、先ほどから言ってるように、ここでヨウ素とかセシウムが検出されてるけど公表しなかったっていうのは、私の記憶の中でこういうことがあったというのはすぐは思い出せないんですけども。
 いずれにしても先ほどおっしゃったようにそういうことが起きたときに、どこが中心になってそれを取りまとめてどうするかっていうことが、言ってみれば官邸はもちろん司令塔なんですけど、司令塔といっても原子力の知識を持ってる、あるいはこういうことの知識を持ってる司令塔にはなってませんので、そののち、それに近いものが15日段階でできてくるんですが、その段階では大変申し訳なかったと思いますが、必ずしもそういう情報が判断できるかたちで上がってきてなかった。
 あるいは判断できる人のところに伝わってなかったということがあります。

堀:
 しかも皆さん、忘れてはいけないのは、津波、大地震の災害と併せての原発事故ですから、非常に広範囲にわたって地震津波の状況把握や対策。
 そして長野県でも大きな地震が発生したりとかしていて、原発だけにかかわりきれないというか、官邸の機能としても国の機能としても複合災害の備えというのができていたのかというのもポイントの一つだと思いますけど、体験されてみてどうでしたか。

菅:
 これは全くおっしゃるとおりで、あれだけの地震なり、特に津波であれだけ大勢の方が亡くなって、さらにはまだ生存者がおられるんじゃないかということでの調査に、特に12日の朝からは入ってましたから、それと並行して原発事故がだんだんと拡大していくのがわかって、ある段階ではそれも撤退をせざるを得ないという場面もありました。

 今でも私が大変申し訳ないと思ってるのは、確か12日でしたか、13日になってましたか。原発事故のほうの避難範囲に入った地域で起きたことです。

 その地域におられた例えば病院にいたお年寄り、あるいは老人施設にいたお年寄り、そういう人たちに避難してもらうために、どこかで用意したバスに乗っていただいて、そして目的地に向かったんですが、ものすごい渋滞もあって、結果的に着いてもそこがいっぱいだとかいろんなことがあって、24時間どころか48時間以上かかって、そういう皆さんが目的地に着いたときに、バスの中でかなりの方が命を落とされてたと。このことは今でも、私は大変本当に申し訳ないし、悲しい思いをしてます。

堀:
 だからこそ原発の避難の専用道路の設置などが必要だとかいわれていますが、いまだにそうしたものの建設というのは進んでないのが全国的な状況ですよね。

 ここで番組視聴者からの質問を紹介します。第一原発の視察に関して、菅総理に何かあった場合に総理の代理はどなただったのでしょうか。その代理の方に、視察前お声がけはされたのでしょうか。
 また、亡くなった吉田所長とお話しされて印象に残ったエピソードがあれば教えてくださいという内容です。

菅:
 もちろん私が行くときには、官房長官であった枝野さんには話をしたんですが、彼は慎重で「やめたほうがいいんじゃないですか」と言われました。

 しかし私は「私の判断で行くから」と言いました。あと、これは法律的かどうか別として、実質的には私がいないときの対応は枝野官房長官に頼んで行きました。そしてもう一つは何ですか。

堀:
 亡くなった吉田所長とお話しされてのエピソードについてです。

菅:
 これは現地に行って免震重要棟にまず入ろうとしたら、大勢の人が床に横たわって休んでおられて、かなり線量が高くなってたので、外から入ってきた人に線量計を当てて私も線量計当てられたんですね。
 「いやいや、私は東電の関係じゃなくて総理なんだ」と言って、そして2階に上がって吉田所長に初めて会いました。

 彼は非常にものごとがクリアでした。ベントをしなければいけないと言っておいて、「もう何時間も経ってるのになぜできないのか」というように聞きましたら、先ほど言いましたかもしれませんが、普通だったらスイッチ一つで弁を開ければいいんだ。
 しかしそのスイッチを押しても電気が来てないんで弁が開かない。そこで人間が行って、弁を開けなきゃいけないけど、放射線量が高いので、5分とか10分で入れ替わり立ち替わりやらなきゃいけないので、非常に難しい状況だと。
 しかし最後は命を懸けてもといいましょうか、決死隊を作ってでもやりますと。
 その言い方を含めて、非常にメリハリがついてましたので、私は非常に信頼感を感じました。

 私は最後には「わかりました、頑張ってください」ということで離れたわけです。

堀:
 吉田さんご自身はその後の吉田調書の中でも、かつて第一原発の非常用電源が水漏れによって機能しなかった事故というのを証言されていて、津波が襲来するというのを聞いたときに、まず過去にあったトラブルのことを思い出したと。
 その当時は東京本部のほうで対応されたと言っておられます。

 何よりも原発のもろさというか、何かあったときのエラーの起こり具合というのをよく把握されてらっしゃったんじゃないかなと逆に思います。

菅:
 多分そうなんでしょう。もちろん私はそんなに専門家という意味での知識はありませんから、吉田所長はそういう中でも、ぎりぎりベントをやらなきゃいけないということと、やるためには人が行かなきゃいけない。人が行くということは非常にリスクが高いけれども、そのリスクを取ってでもやりますからという、その決断を聞いて、私はそれ以上私から申し上げることはないので、「じゃあ、頑張ってください」ということで離れたということです。


■突然現場の周囲から記者が消えた──のちに批判の対象にもなったメディアの対応

堀:
 そしてタイムライン、先に進めていきましょう。15時36分。

 オンサイト関連、15時36分、1号機の建屋が水素爆発。
 14時54分、吉田所長が海水注入を指示。
 爆発によるホースの破損などで海水注入準備作業が中断。

 オフサイト関連、双葉町の井戸川町長、原発から約4キロのヘルスケア―ふたばでぼたん雪のようなものが降るのを見る。
 爆発の約1時間後、爆発を映した福島中央テレビの無人カメラの映像が日本テレビ系列で全国に流れる。
 15時過ぎ、朝日新聞社は原発から30キロ以内に近づかない方針を決定し、記者にメールを送信。12日夜までに浜通りの支局から仲通りへ、記者に移動を指示。

 このメディア対応もいろいろのちに批判の対象になったりもしました。青木さん、この15時台の動きご覧になって改めていかがですか。

青木:
 私は当時岩手に入って、津波で亡くなった方とか避難された方が次々亡くなっていっていたので、せっかく津波で助かった命がどうやって避難で命を落とさずにいられるかということの対応に追われていました。

 県に電話して、物資がここにあるとかこの物資が足りないから今お年寄りが死にそうだとかそういう連絡をしたりとか緊急対応に当たっていたので、このタイムライン見て過去のメールを見たんですけど、私はそのようなメールを受け取ってないのでわかりません。
 ただ、記者の皆は口に出さないだけかもしれないと思うんですけど、そういうメールが来たからといって……。

堀:
 現場に行かないという判断はない?

青木:
 でしょう。
 実際、この方針がいつまで続いたかっていうのは定かじゃないですけど、このあと行く機会はあったかなかったかというとありました。
 それは上司に許可を取ったか取ってないかというと申し上げづらいですが……。でも一人の人間として。

 20キロ、30キロの境界線って線が引いてるわけじゃないし、見えないわけでしょう? あっちに困ってる人が明らかにいるのに、そこに行かないっていう選択肢あります? ないですよね。行きますよ、それは。

堀:
 実際、NHKでは「放射能汚染地図」というドキュメンタリー班が、詳細なリポート、設定区域内にも入ってすばらしいドキュメンタリー、大切なドキュメンタリーを作ったんですが、その後NHKは処分をするんですね。

青木:
 そうですね。

堀:
 そういったこともあって、メディアの対応も問われました。
 この映像がなかなか公開されなかったというのは、木野さんはどのようにお考えですか。

木野:
 これもちょっと理由がよくわからないままだと思うんですけど、結局映像に関して正確な説明ができるかどうかを判断していたというような話らしいんですけれども、それにしても1時間はちょっと遅いなという感じはしますね。

 メディア自体が1Fの状況に対して何か起きてるかを薄々感づいてるから退避指示とかを出してるんですね。

 実際に12、13日あたりからは南相馬市役所のほうにずっとそれまでいろんな記者が張りついてたのが一斉にいなくなったもので、南相馬の市長が記者に「昨日までいたんだけど、どうしたの?」って聞いたりしてるんです。
 ただ、記者は当然その理由は細かい説明はできないので、してないですけど。

 朝日に限らず、テレビ朝日も日テレもNHKもそう。過去の東海村JCO臨界事故で中性子の被ばくがあったので、それを気にしたメディアは基本的には30キロ圏内からは退避というかたちでやってましたね。

堀:
 でも、それが本来伝えるべき役割の人たちがそこから離れる……。

木野:
 きついと思います、それは。

堀:
 一方で情報を、メディアを信じて待ってる人たちはその情報を得られない……。

木野:
 そうなんです。一方で3月の末とかにフリーランスの映像系のジャーナリストの人たちが何人か中に入ったりとか、さっきのNHKの取材班が入ったりとかっていうのがあるんですけれども、それは明らかに組織の行動からははずれて、自分たちの判断で動くしかなかった人たちなんです。

 結局、そういう人たちに対しても情報がなくて、現場に行って放射線量を測ったら「高いですよね」っていうのがその場でわかるような状態だったので、そういう情報の発信の仕方と情報の中の流れ方っていうのはちょっと問題。

 そういう状態だったので菅さんの官邸にモニタリングの表が届かなかったのは、僕はある意味当然だった、自然だったのかなと思います。

堀:
 吉田所長の、「本店、本店」というあの叫び声がまさに15時36分の水素爆発でした。
 でも、それを政府のほうで把握できたのは、それからしばらくあとだったわけですね。

菅:
 しかもそれがテレビですよ。だから、「本店、本店」と言ったということは……。

堀:
 知ってたわけですね。

菅:
 知ってたはずなんですよ。その本店が何で、歩いたって30分もかからないですよ、本店と官邸は。

 ですから、とにかく重要な情報が東電本店からすらこない。あるいは本店からわざわざ派遣されている元副社長からもこない。テレビで見て初めて知ったと。

 これはその後のいろんな対応に対しても率直に言って、非常に不信感を感じましたね。

■「海水注入を官邸が止めた」と言うが、菅元総理が止めたということはない

堀:
 そして次です。夕方になりました。

 オンサイト関連、18時頃から官邸で協議。海水注入で意見一致。武黒フェローが海水注入をするまで2時間くらいかかると発言。
 19時55分に総理が注入するように指示。

 2時間近く経ってますね。実際は吉田所長の判断で19時4分には既に海水注入が始まっていて、武黒フェローは中止命令を出したが継続されていたと。

 そしてオフサイト関連、18時25分、第一原発から半径20キロに避難指示。
 20時32分、総理が会見。
 20時50分、枝野官房長官が会見。放射性物質が大量に漏れ出すものではないと説明。

 さて、オンサイト関連で言うと、どうもこの海水注入をするとのちのちに原発が使えなくなるからではないかという判断も聞いて、随分抵抗したんでしょうということ言われてましたよね。
 実際にはここでのやり取りの舞台裏どんな状況だったんですか。

菅:
 一般的に言えば海水注入をすればその原子炉は使えませんので、そういう判断がどこかにあるとすればそれは東電です。
 少なくとも官邸、私は事故を収束が最優先ですから、そのあとの原発が使えるかどうかというのは考えません。

 ややこしかったのは「海水注入を官邸が止めた」と言うんですけども、少なくとも私は止めたということはありません、全く。

 それを一旦東電の中、多分武黒さんと吉田さんのやり取りか、あるいは東電の本店にいた誰かとのやり取りの中で、「官邸がぐじゅぐじゅ言うから止めろ」と武黒さんが言ったのに対して、吉田所長の有名な話ですが、そばにいた部下に「今から止めろと言うけど、絶対止めるなよ」と言って、そしてわざとテレビ会議で聞こえるとこで「止めろ」と言って本店はそれで止まったと思ったんです。

 実はその止まったという情報を、当時の前総理であった安倍さんは「菅が止めて、それで事故がひどくなった」ということを自分のメルマガに書いて、それを理由に私に対して辞めろと。
 そのあとは不信任案まで自民党は出しましたから、実はこの問題は非常に政治問題にもなったわけです。

 しかし結果としてその後、外国からその関係者が来るときに、吉田所長が「実はあれは止めてなかったんだ」と自ら言って、そのことは事実関係は非常にはっきりしたんですけども、結果的には非常にそういう事実関係としてもややこしかったのと、私にとっては政治的にも、非常にそれで私自身がある種のピンチになったという要素は率直なところありました。

堀:
 この20時50分、枝野官房長官会見の中で「放射性物質は大量に漏れ出すものではないと説明」というのは、これは情報があって、でもある意味、行動に関して管理もしなきゃいけなかったから、こういう情報の方法の出し方になったのか。
 それとも菅さんが先ほどおっしゃってたような、そもそも試算の情報も含めて入手できていなかったのでこういう言い方になっていたのか。実際にはどうだったんでしょうか。

菅:
 これは「放射性物質が大量に漏れ出すものではない」というのは、被ばくを予想したけれどもということでしょうかね。

堀:
 そうですよね。このときの会見そうでしたよね。

木野:
 そうです。事故調査委員会の報告書の中ではそういう書き方になっていて、1号機の爆発を受けてのものなので、それで個人的に避難の指示が出てるんですけれども、それでも福島第一から大量のものが出るものではないっていうそういう説明の仕方です。

堀:
 実際にはもうベントでかなり出ているし、そしてこの水素爆発でかなりのものも出ていたけれども、国民はこの状況を知るすべはこの会見によっては……。

木野:
 ないです。

堀:
 でも当時、官房長官に対しては相当、会見でも突っ込んでましたよね。

青木:
 そうですね。

堀:
 当時のこと覚えてらっしゃいますか。この官房長官会見というのはどうでしたか。
 「枝野寝ろ」っていうあのツイートはかなり当時バズってましたけれども、一方で不信感を生んだ一つの会見の現場でもあったわけです。
 青木さん、どのようにご覧になってますか。

青木:
 電波も電話も通じない現場にずっといたのですみません。リアルタイムではわかりません。あとから見るとひどいなと思いますけど。

菅:
 水素爆発によってどれだけ近隣の、つまりサイトの中を含めた放射線量が上がったかというのは、それは少なくとも東電は即わかってるはずなんです。

 ですから、この記者会見を私も全部は記憶してませんが、こういう言い方をしてるとすれば、それは東電の話を聞いてそれほどはないから言ったんじゃないでしょうか。つまり官邸にいて測定するわけにいかないんです。

 爆発を起こした1号機はサイトの中ですから、それによってどのぐらい放射線量が上がったかというのは当然現場ではわかります。

 ですから、この表現そのものは私は今判断はできませんが、少なくともそういうことがわかるのは東電の現場であり、現場から報告を受ける本店です。

■「メルトダウンという言葉を使わないようにしよう」という変な忖度が働いてた

堀:
 そして、さらに進めていきましょう。13日です。

 オンサイト関連では、2号機3号機、圧力を下げる作業が続く。
 3号機で水素の発生が推測されたため、ブローアウトパネルの開放。建屋に穴を開けることなどが検討されるも実施困難で断念。

 オフサイト関連では、原子力安全委員会、スクリーニングで1万cpmを超えた場合に安定ヨウ素剤服用の指示。
 安全委員会の指示に反して、福島県がスクリーニングレベルを1万3000cpmから10万cpmに引き上げ。後日、放医研(放射線医学総合研究所)からの要請を受け入れて、原子力安全委員会は追認。

 ということで、木野さん、この状況というのはどのように評価されるべきでしょうか。

木野:
 これは本当は個人的にはもっと徹底して検証しなきゃいけない部分だと思っています。

 要はもともとスクリーニングレベル1万cpmっていうのは、健康に何らかの影響があるんではないかというのを懸念するがゆえに決めた事故前のスクリーニングの基準でした。

 それにもかかわらず、もちろん現場で水が足りなくて除染ができないとかいろいろな理由はあるにせよ、いきなり10倍に引き上げてそれをそのまま超えなければ大丈夫だよということにしてしまって、しかも個々人の記録も取ってないんですね。

 なので、実際にあそこから避難した人たちが外部被ばくでどのぐらいしていたというのは数字がわからなくなってしまっているので、これは非常に大きな問題で、あとを引く話だと思ってます。

堀:
 そして次いきましょう。14日です。

 オンサイト関連では、午前11時1分、3号機が水素爆発。
 オフサイトセンターに2号機の異常を知らせる連絡が入る。

 メルトダウンに関連しての情報はここからです。
 18時22分、燃料棒が露出した可能性。
 20時22分、炉心が溶融する可能性。
 22時22分、原子炉格納容器損傷の可能性。

 吉田所長、チャイナシンドロームのような最悪な事態になりかねないと考えると。過去のスリーマイル原発の事故のように空だきになった原発が、燃料棒がメルトダウンしていくというような状況に。

 オフサイト関連では、50キロ圏内の自治体に安定ヨウ素剤配布を検討。40歳未満の住民一人当たり2錠の配布を決定。
 福島県は、原発から30キロ以上離れた地点で採取した雑草から飲食物摂取制限の指標を大きく超える放射性物質を検出。
 農林水産省からの強い要請で厚生労働省は食品検査の対応を検討。17日に1キログラム当たり100ベクレルの規準を通知。

 この燃料棒露出の可能性という、この18時22分のこの情報に関しては、菅さん、当時どのようにして伝達されたのか覚えてらっしゃいますか。

菅:
 先ほど申し上げたように、実際にはもっと早い段階で1号機も燃料棒が出てますし、果たして20時22分というのが本当にこの時間であったのかどうか私にはわかりません。

 ですけども、先ほど来何度も言ってますように1号機が一番早かったんですが、1号機がここで言う炉心溶融、いわゆるメルトダウンが起きたことは当時はその時点では現場も本店ももちろん私も知りませんでした。

 ですから、私が12日の朝行ったときには実はメルトダウンは1号機では既に起きてたんです。場合によってはメルトスルー、つまりは圧力容器の底まで抜けてたんです。
 この22時22分の「原子炉格納容器損傷の可能性」というのは、ちょっと炉によって非常に早いものと遅いものがあるので、一概に言えません。

堀:
 菅さんご自身が原発はもう既に燃料棒が溶けてるということを認識したのはいつ頃だったんですか。

菅:
 これは私も何度も言うようにいわゆる本物の原子炉の専門家ではなく、専門家などの意見を聞いて判断するわけです。
 今はデータが全部出てますからはっきり言うことができますが、東電が起きたとまだ言わないときに、私が特に総理という立場で「起きただろう」と外に向かって言うことはできません。

 ただ、あとになってみると相当早い段階でわかる人はわかっていたにもかかわらず、「メルトダウンという言葉を使わないようにしよう」という、今の流行りの言葉で言えば変な忖度が働いてたんですね。
 私はちゃんとわかった時点できちっと東電が内閣に伝え、私が官房長官に伝え、そこで発表すべきだったと思います。

堀:
 では、官邸の中に入ってくる情報の中にメルトダウンの置き換えの言葉「燃料棒の露出」とか「炉心溶融」とかそういう言葉としての情報は入ってたということですか。
 それがいわゆるメルトダウンだと認識が共有ができなかったということなのか。

菅:
 炉心溶融っていうのはまさにメルトダウンと日本語と英語の差ですけれども、少なくともそういう炉心溶融とかメルトダウンということを東電がなかなか使わなかったんです。いつ使ったか私も覚えていませんが相当経ってからです。

青木:
 2カ月経ってから。

菅:
 2カ月経ってから東電は使っているんです。

堀:
 メルトダウンという言葉は当時、文科省から「『燃料棒の露出が~』という言い方でと言われているから」とニュースセンター内で言われました。
 「メルトダウンですよね?」って言ったら、「いや、燃料棒の露出でいくから」って。

菅:
 燃料棒の露出というのは、普通はいわゆる水が上にあるのがどんどん水位が下がっていって燃料棒の頭が出ることをいうんですけど、頭が出たらそこからメルトダウンが普通は始まるんです。
 ですから、率直に言って、何か言葉を濁すということが東電の側に相当あったんではないか。言ってくれればそのまま伝えてます。少なくとも官房長官も私も。

■複合災害に対応する組織作りがほとんどできていなかった

堀:
 そして、15日になりますね。

 午前3時頃、海江田経産大臣が「東電の清水社長が現場が危険なので社員を撤退させてほしいと言ってきている」と総理に伝えたものの、清水社長は「撤退したいとは言っていない」と証言と。実際には言っていたと。

 午前4時、総理が「撤退はあり得ない」と伝えると、清水社長は「わかりました」とだけ発言。

 先ほど冒頭ありましたように、「撤退はしない。決死隊を作ってでも対応する」ということになったので、結果として、その後、何とかコントロールしていったということでしょう。

 午前5時半頃、菅総理が東電の本店に向かいます。
 午前6時頃、爆発音。4号機建屋に損傷確認。
 そして吉田所長は2号機からの爆発音と認識。監視及び応急復旧作業に必要な人員を除いて福島第二原発に一時退避を指示。
 午前中以降グループマネジャーなどから順次、福島第一に復帰。

 第二原発に移るということに関して、朝日新聞の報道で少し注目された見出しがついてしまいましたよね。

青木:
 はい。

堀:
 覚えてらっしゃいますかね。

 そしてオフサイト関連、海外の拡散予測情報などから三春町で放射線量の上昇が予想される。
 住民や大熊町、富岡町からの避難者らに安定ヨウ素剤の服用。福島県が中止を指示するも、従わず。
 文科省はSPEEDI予測を基にモニタリングを実施。浪江町の赤宇木で毎時300マイクロシーベルトを測定。かなり高い測定値が出ている。

 そして、この状況がきちんと伝えられていなかったがために避難指示も出ていないという状況でした。

菅:
 非常に重要なことが実はこれに書かれてないんですね。
 私が東電の社長に「撤退はありませんよ」と言ったというところまでは書かれてますが、そのあとに併せて私は「このままでは情報共有ができないから、内閣と東電の統合対策本部を作りたい。それは東電本店に置きたい」と清水社長にそのときに言ったんです。

 彼は「わかりました」と言ったんで、「それでは今から東電本店に行きたい」と私が言いました。そしたら「少し待ってくれ」ということで、結果的には1時間半ぐらい経ったときに行きました。

 そこで正式に決めたのは私が総理ですから統合対策本部の代表。そして副代表は海江田経産大臣と清水社長。
 そして、私の補佐官でした細野さんに現地の事務局長役でずっと残ってもらいました。

 あといろんなことがありますけども、時間が経つにつれてそこが非常に情報の中心になってきました。

 それは何度も申し上げるように、事故が起きてることが一番わかるのは当然東電ですから、いくら官邸で待ってても東電から情報がこない限りこちらで情報を作るわけにいかないんです。
 その点は細野補佐官が東電に詰めて、そしてそこにだんだんと関係者が集まって、先のほうではアメリカの関係者もそこに集まったんですが、そこで統合対策本部ができたということはこの一連の中で非常に大きなことだったと私は思ってます。

青木:
 この統合対策本部はもうちょっと早くできなかったんですか。15日まで作らなかったっていうのは。
 私がちょっと疑問なのは、菅さんは現場に行かれてるじゃないですか。現場っていうことはつまり、免震棟でもこのシステムが動いてたはずなんですけれども、菅さんはその当時、そのシステムは現場では1Fではご覧になってない? テレビ会議システムはご覧になってない?

菅:
 見てません。吉田所長に会ったところの会議室では見てません。

 見たのは15日の夜に統合対策本部を作るために本店に行ってみたら、どーんとこんなあるじゃないですか。何でこんなものがあるのに、1時間も2時間も伝わってこないんだっていうのは本当にびっくりしました。そのときが初めてです。

堀:
 何でその情報を経産省も保安院も含めて官邸に伝えなかったんでしょうね。

木野:
 経産省はテレビ会議をオフサイトセンターでつないでたんで、だから現場の担当者は知ってたはずです。そこには結局13日くらいに担当の経産副大臣の池田さんが行かれてるんで、多分見てはいたと思うんですね。

 ただ、オフサイトセンターの中で見たことっていうのが、どういうふうになってたかっていうのが、もしかしたらちゃんと認識できてなかった人たちがいたのかもしれないと。

青木:
 15日に統合対策本部を作るわけですけれども、その前に指揮命令系統が誰が責任者で、誰の指揮で事故を収束させるのかというのは、それが定まってなかったのがよくなかったという記述も事故調に書いてるあるんですけれども、15日の前は誰が最高責任者で、誰を指揮を執っていたかというご認識についていかがでしょう。

菅:
 原災の法律ができたのも事故が起きるそんな昔じゃないですね。もちろんあんな事故が起きたのは初めてです。
 例えば放射能で2人の方が亡くなったJCOの事故とかは大体当事者、つまり関係者が集まって対応にあたるわけです。
 当然ながら今回の場合は東電の会社の工場内での事故ですから、東電が直接事故処理にあたるんです。

 先ほど来申し上げたように原災本部というのは、もちろんサポートはしますけれども、権限としてはこのスイッチをこうしろ、あのスイッチをああしろという権限は実はないんです。

 それであくまで避難とかのことをやるんですけども、おっしゃるようにもっと早くできたらよかったと今では思ってます。

 ただ結果的に東電が撤退ということを言いだしたので、それを止めると同時に、単に止めただけじゃ不十分だと思ったので統合対策本部を作りたいと言って社長の了解を取ったということです。

 ですから、おっしゃるようにもっと早く作っておけば結果としてはもっと対応が早かったかもしれませんが、その時点では東電からはあくまで担当者の武黒さんが来てちゃんと伝えますからということでとどまってたということです。

青木:
 2人が亡くなった東海村JCO臨界事故でも、こちらは事故が起こった当日に事故の責任者というのを政府が任命していました。
 それは中の人ではなくて、原子力安全委員会の委員長代理だったんですね。事故が起きたその日のうちに、この人は責任者だっていうのを専門家を政府は決めていたっていうのと、今回のこの15日になったっていう差異についてちょっと疑問なのです。

菅:
 あの頃に法律がどんどん変わってますので、全く10年前とその前が同じかどうか正確にはわかりませんけども、少なくとも東電が事故処理、飛行機事故で言えばパイロットが吉田さん、管制塔が本店のような位置づけだったと私は認識してます。

 ですから結果においてもっと早くというのはわかりますけれども、その時点では多分東電も基本的には官邸官邸といっても原子力の専門家は一般的に言うといないわけですから、もし官邸がやるとすれば、そのときにあった経産省の中のエネルギー庁の中の原子力安全保安院が担当するしかないんです、位置づけとしては。

 しかしその保安院のトップも原子力の専門家でないというのがそのときわかったんですが、そういう意味で決して私は言い訳をしてるつもりではないんですけども、おっしゃるとおり、もっと早くしっかりしたのができたほうがよかったと思います。

 しかし、作るための前提となる人の体制も、国のほう自身にも実はそういう体制がなかったというのが事実です。

堀:
 はっきり言うと複合災害に対応する組織作りはほとんどできていませんでした。
 のちにわかったこととして、普段からの地元自治体の方に聞きましたが、このオフサイトセンターがあっても訓練などがあったら「ここに逃げましょう」の一辺倒で、そもそも風によって放射性物質がどっちに行くのかとかそういうことを想定して作られていないから、実際にはそこに逃げようと思っても高いほうに逃げざるを得ないからそっちに行けないとか、原子力というものを扱う国の体制ではなかったっていうことが一つには明らかにはありますよね。

木野:
 端的に言ってそこだと思います。

青木:
 だって、複合って言いますけど、地震と(地震で発生した)津波って一緒にくる可能性高いわけじゃないですか。

堀:
 そうですね。

■神のご加護があったから日本は助かった

堀:
 そして最後、3月17日10時過ぎ。

 オンサイト関連では、12日の未明に続き日米首脳電話会談。
 自衛隊のヘリコプターで3号機上部に散水。
 アメリカの原子力規制委員会の幹部が北沢防衛大臣を訪ね、グローバルホークで上空から撮影した映像をもとに、4号機の使用済み核燃料プールが空になっていると指摘。

 一方、オフサイト関連では、国家公務員の緊急時作業の線量限度を250マイクロシーベルトに引き上げ実施。
 厚労省は1キログラム当たり100ベクレルを超える食品は食用にしないよう都道府県に通知。

 さて、ここで菅さんはかねてよりご著書の中でもふれられていましたけれども、「神のご加護があったから日本は助かった」と。
 その中身がまさに2号機の圧力低下と、4号機の使用済み燃料プールに水が残っていたからだとおっしゃっていました。

 米国の調査で、その当時4号機使用済み核燃料プールが空になっているという指摘があったと。このときのやり取りっていうのはいったい具体的にはどうだったんですか。

菅:
 米国の調査そのものについて、私はその時々に聞いていたわけではありませんが、少なくとも4号機の使用済み燃料プールの水が相当量蒸発して危ない状況にあるという心配をしていました。

 当時4号機は定期点検中で、使用中の燃料棒が原子炉本体から抜き出されて、原子炉上部の隣にある使用済み燃料プールに一時的に移されていたのです。使用中の燃料棒は発熱量が大きく、プールの水が蒸発してなくなるとプールの中でメルトダウンが起きます。

 そうなると大量の放射性物質が空中に放出され、東京まで流れてゆく。そうなればまさに最悪のシナリオで示された250キロ圏からの住民避難ということになっていたと思います。

 米国のNRCもプール内の水が蒸発し、プール内の核燃料のメルトダウンが起きているのではないかと心配していたことがわかっています。

 しかし、いくつかの幸運が重なってプールの水は残っていたのです。
 なぜプールに水が残っていたか。ちょっとややこしいですけれど、定期点検のときにはまず原子炉圧力容器本体と隣の使用済み燃料プールの間に水の通路を作るのです。
 その水の通路を通って使用中の燃料棒を使用済み燃料プールに移します。移し終わると圧力容器の上部とプールの間にゲートを下ろして遮断する。ゲートを下ろすところまでは実は進んでいたのです。
 この状態でプールの水が燃料棒の発熱で蒸発を続けるとプールの中で燃料棒が溶け出していたのでしょう。それがプール側の水位が下がってきたときにプールと原子炉上部の圧力差でゲートがねじ曲がり、原子炉上部の大量の水がプールに流れ込み、空焚きにならなくて済んだのです。

 私、関係者に尋ねました。一方の側に曲がるのはストッパーで止められていたのに、逆の側に曲がるのを止めるストッパーがついてなかったと。
 「わざわざこういうことを想定してつけてなかったんですか」と聞いたら、「いえ、まさか原子炉上部の側の水位が高くなってプール側が低くなるなんていうことはあり得ないのでつけてませんでした」と。

 そのおかげで、結果的に原子炉上部にたくさんあった水がプール側に流れ込んで、それでもう何日間か水がもったのです。その後ヘリコプターから水を入れ、最終的にはコンクリートを圧力で高所まで上げるキリンさんとかゾウさんという名前をつけた装置が、プールの真上まで届いて、それで安定的に水を入れれるようになって、少なくとも使用済み燃料プールでのメルトダウンが起きなくて済んだことなんです。

堀:
 からくもですね。

菅:
 これはまさに神のご加護としか言いようがないことだと思って、私の本にもその例を一つ挙げたんです。

 2号機のことも言えば、あれも同じ15日の朝ですけども、ボーンと音がしてどこかに穴が開いたんです。
 しかしそのときに、もしも4号機そのものの格納容器がいわゆるゴム風船が壊れるように、バーンと爆発してたら、中の放射能が全部出てます。

 しかし幸いにしてどこかにひびが入るようなかたちで、例えば、紙風船をひゅっとやったときに、どこかがびしっと……。

堀:
 破れる。

菅:
 そうなると放射能は相当出てます。多分1号から4号機の中で一番たくさん放射能が出てるはずです。

 しかし幸いにして爆発はしなかった。今でも形は残ってますから。それで何とかその最悪のところまでいかなかった。

 これも圧力が上がったときに、格納容器がどういう壊れ方をするかっていうのは、私が知る限り実験した人はいませんから、やっぱりこれも神のご加護ではなかったかと思ってます。

堀:
 木野さんいかがですか。

木野:
 本当に偶然に偶然が重なったせいだと思います。

 4号機に関して言うと、定期点検の予定が1週間か2週間後ろにずれてたんですね。
 本来の予定だと事故の4日か5日ぐらい前に終わってプールの水を抜いてたはずで、もしそのときに地震になって今回の事態になってたら、4号機のプールは間違いなく空だきになってたと思います。

 本当にたまたまそういう状態だっただけであって、そういう意味ではひどい事故ですけれども、不幸中の幸いであそこで何とか止まってるのは、たまたまが重なってるだけの話であって、最悪のケースも起こりえたということをちゃんと覚えておかないと原発事故をなめてかかるんじゃないかっていうのはちょっと不安です。


 第一部の内容はここまでになります。
 続きはニコニコ生放送の番組をご覧ください。(この番組は、アカウント登録不要でどなたでもタイムシフトを視聴できます。ただしスマートフォンから視聴する場合、ニコニコ生放送アプリのインストールが必要です)

■番組情報

■タイトル
【3.11から10年】その時、総理はどう決断したか 菅直人元総理インタビュー

■視聴URL
https://live.nicovideo.jp/watch/lv330444669

■関連番組

■タイトル
【3.11から10年】緊急事態下の危機管理と情報発信 枝野幸男(元官房長官・立憲民主党代表)

■視聴URL
https://live.nicovideo.jp/watch/lv330444554

■全文書き起こし(枝野幸男氏のnote[外部リンク])
・3.11から10年。緊急事態下の危機管理と情報発信について (3/9ニコニコ生配信 講演全文)
https://note.com/edanoyukio0531/n/n751b98c57e7b

 

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