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「あなたの仕事は僕のお世話」昔気質な夫を説得。時給962円のパートから司会業、そして経営者への道

OTONA SALONE / 2024年3月19日 18時0分

中学生の頃から夢だったキャビンアテンダントの夢をかなえ、27歳まで外資系航空会社で世界を飛び回っていた藤川さん。妊娠出産で家庭に入ってからは、育児と介護に邁進。そんな時、自分が社会的に「無職」と呼ばれる存在だと思い知らされます。自尊心を失い、自分を押し殺してくすぶっていた30代をなんとか切り抜け、41歳の時に再び社会に出る機会を得ました。

そして、藤川さんはまた新たなディパーチャー(出発)を迎えます。

 

【私のキャリア #2 前編】

40歳を過ぎて、まさかのMCデビュー!見た目は熟練、心臓はバックバク

司会をしている時の藤川さん。

お子さんが中学生となり、亭主関白な夫を説き伏せて、週に1日、結婚式場でのパートに出るようになった藤川さん。「はじめてのお給料日、時給962円という自分で稼いだお金がどれだけ嬉しかったか」とその当時の心境を目に涙を浮かべながら話してくれました。

 

「義理母が言ってくれた『一生働いて仕事をしなさい、女の自立は経済の自立、自分が嫌だということに嫌だと言える方法はそれしかない』の言葉の思いを本当の意味で受け止めることができたのは、きっとこの時ですね」

 

パートの仕事を始めた当初は、結婚式での受付や親族への案内などの仕事をしていたそうですが、ここでまた転機が訪れます。

 

「ある日、式場のマネージャーさんから『結婚式の司会をやってみないか?』と誘われたのです。司会の仕事なんてもちろん未経験。でも研修もあるというし、なぜだか根拠のない自信が湧いてきて、やってみようかなと」

 

おそらく、キャビンアテンダントの頃から身についている美しい所作や、どんな仕事も丁寧にこなす真面目さ、明るい人柄をマネージャーはチェックしていたのではないでしょうか。

それから4ヶ月間の研修を受けて、結婚式の司会者としてデビューすることになりました。

 

「もう40歳も過ぎていたから、見た目だけはこの業界長そうな貫禄がありますよね。おそらくご出席の皆様もそういう目で見ていたに違いありません。でも、内心は不安だらけで、もう心臓バックバクでしたよ!」

 

とはいえ、かつて英会話目的に知らない外国人に話しかけてしまうような肝の座った藤川さんです。本番が始まると妙に落ち着き、及第点のデビューを飾ることができたのだそう。そうしてどんどん司会者としての腕を上げていきます。

 

「結婚式終了後に、『藤川さんの司会でほんとに良かった』って言っていただけることが増えてきたの。人から感謝されるのって、ほんと嬉しいですよね。これこそが私にとっての生きていく証なんだなって、また改めて気がついて。仕事にのめり込んでいきました」

 

もちろん人気にあぐらをかくタイプではありません。周囲には声がフレッシュな若くてかわいい司会者がたくさんいます。その中で自分らしさを出していくにはどうしたらいいのか。ラジオを聞いて話し方を研究したり、セミナーに通ったり、教科書通りではない人間力を感じられる話し方をするにはどうしたらいいのかなど、必死に勉強をし続けたのだそう。すると、ますます評判が上がります。

 

「お客様から『藤川さんでお願いします』って指名されるようになったんですよ!」

 

人間味ある話ぶりと落ち着いたトーンの司会が評価され、気づけば結婚式場で指名ナンバー1に。

 

「そして、結婚式場の司会だけではなく、あちらこちらから声がかかるようになったんです。イベントやらない?とか、友達の結婚式やってとか、ラジオ出ない?って」

 

こうして、くすぶっていた30代から、どんどん好転していきました。

 

「コロナ禍に入ると今度はオンライン配信での司会の需要も増えて、事務所に入ってフリーのアナウンサーになることに。いろいろなことに挑戦できて、もう楽しくて。そのうち平日も仕事をやりたくなって、キャビンアテンダントの時に学んだおもてなしやプレゼンの研修講師という仕事も始めることにしたのです」

 

藤川さんは司会者という仕事の枠に収まらず、ますます活躍の場を広げていきます。
ところで、あれだけ家にいて欲しがっていたご主人は…?

 

「その頃には、夫も『しょうがないなぁ』って思ってくれたみたい。週1じゃなくてもよくなってたの(笑)。夫はどうもパソコンで私のことを検索してくれたみたいで。そしたら、自分の妻が司会者としてヒットして。きっとビジネスパーソンとしての私を認めてくれたんじゃないかって思っています。だから今はもう、やりたいことは何でもやっちゃえーって感じです」

 

「あなたの仕事は私のお世話をすること」と冗談でも言っていたようなご主人が、妻が外で活躍することを認めたのは、藤川さんの努力と実績あってこそ。自由に仕事をする環境を藤川さんは自身の力で手に入れたのです。

 

 

実父が痴呆に…。ボロボロな小屋からはじまった父のビルで「おまえはここでビジネスをしなさい」

お父様とお嬢さんの2ショット。「お前は私の宝物、その宝物が産んだ孫はもっと宝物だ!」とよく話されていたそう。
藤川さんが1番大好きな2人の笑顔の写真です。

 

やっと自分を取り戻し、フリーアナウンサー、研修講師として順風満帆な日々を送っていた2年前の冬に、藤川さんのお父さまに変化が起こりました。

 

「父は会社を経営していたのですが、会社の従業員の方から父の様子がおかしいと連絡がありました。慌てて実家に帰って、父に今日はどうしてたの?と聞いたら、『会社に行ってた』っていうんですよ。その時、父はパジャマを着て髭ボーボー。こんな姿で仕事ができるはずがない。これはおかしいと病院に連れて行ったら、中期の認知障害と診断されました」

 

会社経営を続けるのは難しく、お父様の会社は精算することになりました。その事務所があったのが、現在「エアー・ビジネス・ディパーチャー」がある自社ビルのワンフロア。当然ビルも売却の方向で話が進んでいたのですが…。

 

「不動産会社への書類を作るために、何度もこのビルに通ったのですが、そのうちだんだんと愛着が生まれてきて…。そしてある日、ふと気づいたんです。父は今88歳ってことは、このビルを建てたのは53歳。あれ、今の私とほぼ同じ歳じゃない?って」

 

お父様は定時制高校に通いながら仕事を始め、30歳の時に起業された、かなりの苦労人なのだそう。

 

「もともと、ここはトタン屋根のボロボロの建物だったんです。でも父はいつか絶対に自社ビルにするんだってすごく頑張っていて。その夢が叶ったのが、今の私とほぼ同じ年齢なんですよ。50歳を過ぎて、おそらく多額の借金をして念願のビルに建て替えた父。毎日どんな思いでここにやってきて、仕事をしていたのだろうと思いを馳せているうちに、売れなくなっちゃって…。父の大切なビルへの思いをつなぎたいって、考えが変わり始めたのです」

 

そして、お父様の様子をみて相談してみることに。

 

「そしたら、父の事務所が入っていたフロアでお前が何かビジネスしなさいって。いやいや、私は単純に賃貸オーナーとして引き継ぐくらいの気持ちだったから、最初はとんでもない!と思いました。でも父に『ビジネスは自分でやってみないと分からないんだよ』と。すると、また根拠のない自信が出てきちゃって」

 

【前編】では、結婚式場で週1で働きはじめた藤川さんが、周囲の評価と信頼を勝ち取って司会業としても成功した道筋についてお伝えしました。

▶つづきの【後編】では、お父様から引き継いだスペースで、起業することになった藤川さんの奮闘と思いをお伝えします。はたして、新規ビジネスも司会業のように成果を出せたのでしょうか?__▶▶▶▶▶

 

 

≪編集者・ライター/出版戦略コンサルタント 松井元香さんの他の記事をチェック!≫

 

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