徳川家康が河川工事から手をつけた3つの理由

プレジデントオンライン / 2019年10月19日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yasuppy

東京は107の河川をもつ「水の都」だ。その姿は徳川家康が整えた。江戸に入府した家康は、まず河川工事から街づくりを始めている。オラガ総研の牧野知弘代表は「そこには3つの理由がありました。水は重要な資源であると同時に、大きなリスクもあるからです」という——。

※本稿は、牧野知弘『街間格差-オリンピック後に輝く街、くすむ街』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■都内には107の河川がある

東京の地図を広げてみて目立つのは、都内を流れる多くの川、縦横無尽に走る道路と鉄道、そしてその間に広がる住宅や商店、学校です。とりわけ目につくのは東京とは非常に「水」に恵まれた都市だということです。

東京都内には現在、一級河川として多摩川水系、利根川水系、荒川水系、鶴見川水系という4つの水系があり、この水系を中心に92の一級河川が展開しています。これに二級河川を含めると、都内にはなんと107もの河川が存在しているのです。延長距離は858kmにも及んでいます。

しかし東京の河川は、もとからこのような水系だったわけではありません。現在の水系が整ったのは1962年に新中川が完成したときであり、その完成をもって、今の東京の基本形ができあがったと言うべきでしょう。

江戸幕府を築いた徳川家康が入府したのは1590年(天正18年)ですが、当時の水系は渡良瀬川が直接江戸湾に流れ込んでいました。利根川も現在のように銚子に流れてはおらず、荒川と合流し、江戸湾へ流れ込んでいました。さらに隅田川は、入間川の最下流部分として位置付けられていたのです。

■洪水対策で大規模な河川工事を行った家康

入府した家康は、江戸を東日本随一の大都市に仕立てるべく、大胆な河川工事を実施します。工事の実施には大きく言って、3つの理由がありました。

1つ目が洪水対策であり、2つ目が豊かな農地を作るための灌漑(かんがい)工事、3つ目が江戸へ日本中の物資を集めるための物流機能の整備でした。

その結果、利根川の川筋は東へ移して渡良瀬川と合流、銚子に流すことで江戸は太平洋へと直接繋(つな)がることになります。現在の千葉県佐倉市付近が利根川から太平洋に繋がる物流の街として栄えたのは、この川の付け替えによるものです。

また、渡良瀬川の最下流部分は江戸川と名前を変え、利根川の分流となります。荒川は入間川と繋げられ、上流で隅田川と分岐して江戸湾に流れ込むようになりました。家康による河川改良事業は「利根川の東遷、荒川の西遷」とも呼ばれています。

江戸時代にこれだけ大規模な河川整備を手がけなければならなかったのは、当時の物資運搬の交通体系が、陸路ではなく海路だったからです。

江戸の商業の中心と言えば日本橋ですが、それ以外にも京橋や新橋など、都心に水にちなんだ地名が多いのは、家康が整備した河川を使った水運を中心として経済が発展したためです。

■晴海も東雲も、運河として整備された地域だった

東京の河川整備は時代が明治になった以降も続けられました。特に荒川は氾濫が相次いだことから、明治政府は1911年より荒川放水路の整備に取りかかります。

この結果、隅田川流域での洪水被害は減少しましたが、荒川の東岸の低湿地帯では依然として洪水の被害が後を絶ちませんでした。そこで江戸川と荒川の間を流れていた中川の改修に着手。大工事の末に新中川を建設し、東京の河川は現在の姿に至ることとなります。

こうした河川整備の一方で、物流基地として都内には多くの運河が建設されました。船で運ばれてくるたくさんの物資をさばくための河岸が必要となり、街の中に運河が建設されたのです。

現在、都内には約15の運河が残っています。

今、中央区晴海や江東区東雲などと聞くと、林立するタワーマンションをイメージする人が多いかもしれません。しかしこれらも、もとは運河として整備された地域でした。

アメリカ資本のブルーボトルコーヒーの日本第一号店がオープンするなど、近年、江東区の清澄白河が若者を中心に人気を集めていますが、この街にある小名木川も、やはり運河として整備された場所です。なおブルーボトルコーヒーがこの地を選んだのは、静かで道が広く、それでいて清澄庭園や現代美術館があるなど、文化的な場所でもあったから、などと言われています。

■東京は「水の都」として蘇りつつあった

江戸時代から引き継がれてきた河川や運河は、明治時代となり、江戸がその名を東京に変えてからも、清潔に保たれてきました。東京の人々は水に親しみ、水を大切にして生きてきたのです。まさに東京は「水の都」でした。

ところが太平洋戦争の勃発で東京は空襲を受けて、大量の瓦礫が運河や河川に投棄され、戦後には多くの工場から廃液が流れ込んだことから、清廉な水辺は黒く淀み、川岸は無機質なコンクリート壁の堤防になって街と川との間に立ちはだかることになります。

私は中央区築地明石町で育ちましたが、子供の頃の情景とは、まさにこの黒く淀んだ隅田川と運河の光景です。

その後、公害問題がクローズアップされるのに従い、工場の廃液や家庭排水に対して厳しい環境規制が施され、川の水はきれいになり、魚が泳ぐまでに回復しました。

街と川を分断していたコンクリート堤防も壊され、スーパー堤防に整備されるなどした結果、水辺は再び人々の憩いの場へ戻っています。つまり、東京は「水の都」として蘇(よみがえ)りつつあったのです。

そのようななか、先日やってきた台風19号によって日本各地が大きな被害を受けることとなりました。そして東京でも多摩川が氾濫するなど、ややネガティブな意味で河川にふたたび注目が集まっています。

■津波や液状化の被害から逃れがたい東京東部の低地

あくまで不動産屋としての目で見れば、川や運河沿いの街はマイナスポイントがあるのも事実です。

特に東京東部の低地は、もし直下型の地震などに襲われて津波や土地の液状化が起きた場合、その被害から逃れることは難しいエリアです。地盤も高台に比べて軟弱なので、建物に対する被害も大きなものになることが予想されます。

生活利便性という意味でもマイナスポイントはあります。

そもそも川や運河は陸路を塞いでしまうので、たとえば商業施設の立地などは、川の存在で商圏を分断されることを嫌う傾向があります。だから大型の商業施設が川沿いに作られることは少ないのです。また川を越えるためには橋を渡ることが必要になる場合がほとんどのため、川沿いの住宅地はどうしても交通利便性が落ちてしまいます。

さらにその制約から、駅も作りにくい立地にあります。そのため川沿いや運河沿いの物件は、自然と駅から遠くなる傾向があります

■「水」は東京を支える重要な資源

しかし私たちが東京について考えるとき、その歴史から、そしてその文化から、やはり「川」の存在を語らないわけにはいきません。

牧野知弘『街間格差-オリンピック後に輝く街、くすむ街』(中公新書ラクレ)

河川の支流でも、南こうせつが歌い、流行歌にもなった神田川、桜の名所として名高い目黒川や石神井川、日本橋の下を流れる日本橋川など、特徴のある河川が街に彩を添えています。

今でこそ東京は、高速道路や鉄道が縦横無尽に走る街ですが、これからは都民や東京を訪れる観光客の足として、水を使った交通路の整備や利用があらためて視野に入ってくるものと思われます。東京五輪でも東京の水は大いに活躍することでしょう。

ふだんあまり意識することはないかもしれませんが、今も昔も「川」は東京と切っても切れない身近な存在なのであり、「水」は東京を支える重要な資源の一つなのです。

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牧野 知弘(まきの・ともひろ)
オラガ総研社長
1959年生まれ。東京大学経済学部卒業。第一勧業銀行(現:みずほ銀行)、ボストンコンサルティンググループを経て、89年三井不動産入社。数多くの不動産買収、開発、証券化業務を手がけたのち、三井不動産ホテルマネジメントに出向し、ホテルリノベーション、経営企画、収益分析、コスト削減、新規開発業務に従事する。2006年日本コマーシャル投資法人執行役員に就任しJ-REIT(不動産投資信託)市場に上場。09年株式会社オフィス・牧野設立およびオラガHSC株式会社を設立、代表取締役に就任。15年オラガ総研株式会社設立、以降現職。著書に『なぜ、街の不動産屋はつぶれないのか』『空き家問題』『民泊ビジネス』(いずれも祥伝社新書)『老いる東京、甦る地方』(PHPビジネス新書)『こんな街に「家」を買ってはいけない』(角川新書)『2020年マンション大崩壊』『2040年全ビジネスモデル消滅』(ともに文春新書)など。テレビ、新聞などメディア出演多数。

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(オラガ総研社長 牧野 知弘)

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