「メガ・クラスター」あのクルーズ船に乗っていた私が見たもの
プレジデントオンライン / 2020年5月1日 9時15分
※本稿は、小柳剛『パンデミック客船 「ダイヤモンド・プリンセス号」からの生還』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■レストランの入り口では必ず入念に手を洗わなければならない
2月4日早朝6時ごろ、私たちの部屋に2人の検査官が現れた。
体温を測り、前もって記入しておいた私たちの住所、連絡先、メールアドレスの所定用紙を回収して行った。所定の用紙は昨日配られたものだ。断っておくが、この時点での検疫検査はPCR検査ではない。
いつものように8時過ぎに14階のビュッフェで朝食をとる。部屋での隔離はまだなされていなかった。
どのクルーズ船もそうなのだが、ビュッフェ、レストランの入り口には手洗いコーナーが設けてあり、入るときは必ずそこで入念に手を洗わなければならない。この船もそれは同様であり、ウエイトレスが必ず手洗いコーナーに立っており、入ってくる乗客に手を洗えと指示をする、そのことは出航当初から徹底されていた。
検疫下におかれると、このような注意はより厳しくなり、前の人が使ったテーブルに次の人が座るときには、ウエイター、ウエイトレスが椅子、テーブルを入念に拭くことをはじめた。しかし残念ながら、よく絞らず濡れたままの紙のナプキンで拭くからたまったものではない。椅子もテーブルも濡れたまま、ベトベト、すぐには座れない。私はナイフやフォークを包んだ布のナプキンで再度拭き直すのだった。
ビュッフェはいつも満杯で空いているテーブルをさがすのに苦労するのだが、その日は運よく窓際のテーブルに座ることができた。食事をはじめてまもなく、ふと下を見ると、取材のテレビクルーだろう、彼らが乗った小船が何艘かあり、大声で何かを叫びながら、カメラを操作するのが見えた。
上空を数機のヘリが飛び交い、ただならぬ雰囲気に包まれはじめた。しかし乗客のほうは「いったいなんの騒ぎか」と、逆にスマホを取り出し写真を撮ったり、手を振ったりしだす始末。繰り返すが乗客側は状況がつかめていないのだ。Wi-Fiがつながりはじめた。
■「部屋にいない人間に、『部屋にもどれ』と何度も放送」
10:28 ふたたび友人Kとのショートメール交信
私「世の中、この船のこと、どのようなニュースになっている? 明日行く予定の病院に診察延期のTELをした。理由を話したら受付がすぐ理解してくれた。そこまで有名なこと?」
これに対する返信はない。
11:15 友人K「船と、そちらの状況がわからない。連絡されたし」
私「ただいま船内放送。検疫作業は70%終了。検疫官を増やして作業しているらしい。部屋にいない人間に、部屋番号を読み上げ部屋にもどれと何度も放送。次の放送は十五時過ぎらしい」「夜に下船させられても、帰れない、寝る場所がない、船内でもう一泊かな? 船のほうも、次のクルーズ予定を一日延期したらしい」「今、ネットを見た。ネットではしばらく乗客を隔離しろとの意見が多数。テレビはどう言っている?」「検疫70%終了は乗客のほう、クルーズスタッフは全員終了らしい」
友人K「ネットは実にダメ。テレビではそんな話は全然ないよ。ネットの異常さがよく見える!! 常識を信じよう。大丈夫だよ」
■友人は「船内は大混乱」という一方的なイメージに苛立っていた
14:18 ふたたび友人Kとのショートメール交信
私「全部の検疫がすむのは夕方だと思う。それからの下船は乗客から文句がでる。だからもう1日乗船、明日朝から下船開始と思う。那覇から検疫が異常に強くなった。次に船から感染者出る、だもの。今日下船できると思って荷造りに励んでいたのにねぇ」「船(会社)のほうには2日には感染の情報は入っていたんじゃないかな。驚いたろうね。これからの対策や、次のクルーズを考えたら大混乱だと思うよ。さっき玲子がフロントに行ったら、外国人が列をなしていたそうだ。飛行機、ホテルのスケジュール調整、考えただけでも気持ち悪くなる」
友人K「テレビがガンガン放送しているけれど、船内の様子がさっぱりわからない」
私「船内はいたって平和。でも公共の場所はフロントをのぞいて人は少ないかな。しかしねぇ、プールのそばでマージャンやっているし、卓球もやっているしね」「体調の悪い数人の検査の結果が出るのが今日の夜。下船予定はそれから組まれると予想」
友人K「先に下船した人物、脳梗塞かも、との放送だった。乗船客の数に対して、検疫をするスタッフが圧倒的に足りないと放送。40人しか乗り込んでいないらしいよ」
すでに私の関心は下船の時期に集中していた。一方友人Kのほうはテレビが流していた「船内は大混乱している」という一方的なイメージ(そう私は想像した)に苛立ち、実際の船内の様子を知りたがっている。
私は部屋から船内に飛び出し、14階から7階まで一巡し、特徴的な写真を撮った。友人に本当の船内の姿を伝えたかったのだ。なぜこうも船内と船外の様子、イメージ、情報が食い違うのかそれを伝えたかった。
このあと、部屋から私は数枚の船内写真を友人Kに送った。Kはこの写真を見て、社会が想像するイメージと船内の様子があまりにも違うことに驚くのである。
■「これから原則14日間の隔離を行う。全員室内にとどまれ」
2月5日、事態がついに動いた。
早朝に船内放送があり、いつものように訛りの強い船長の英語でのメッセージ、そしてそのあとに男性が日本語に通訳する。この詳しい時刻は覚えていないが、早朝には、NHKのF記者にその内容を伝えていた。
6:38 早朝のショートメール送信。
私「今日最初の船内放送です。乗客は公共の場所に出るな、全員客室内で待機してくれ、との指示。この放送は全室に聞こえる放送。重要でない放送は公共の場所だけに聞こえる放送です。緊張度が突然増したよう」
F記者「ありがとうございます。客室内で待機する指示ははじめてですか?」
私「はじめてです。食事はどうするのだろう? すぐそんな疑問が出てきます」
このメールのやり取りのあと、F記者による二度目の電話インタビューを受けた。話したことは、もしこれから隔離がなされるなら、まず心配なことは薬が不足することだった。
この後ふたたび八時十分に船内放送。決定的なことが知らされる。
〈昨日採取した検体から十名の感染者が判明したので乗客は全員室内にとどまってほしい。これから原則十四日間の隔離を行う。船はこれから生活用水確保のため外洋に出る〉
内容はだれもが間違えようもないほど明確に伝えられたのだった。
■もっともエネルギーを注いだことは薬を手に入れることだった
船は海水をろ過して生活用水をつくり、生活雑排水もろ過して外洋に捨てるという特別のシステムを備えていた。生活用水確保とは、そのために外洋に出ることを指す。
このような作業は航海中続けられているようなのだが、今回のように停留が長くなるとたびたび定期的に房総半島沖に出て行かなければならなかった。しかしまずは発生した感染者の搬出が優先で、放送後もしばらく船は動く気配はなかった。
8時30分にふたたび船内放送。
〈食事はルームサービスを通じて全室に配る。1300、すべての部屋に配る〉
この放送により、隔離はいよいよ現実のものと実感された。
今までのどっちつかずの状態から、あきらかにフェーズは変わった。長期戦がはじまるのだ。あとから考えると、拘束された生活は三段階に分けられると思った。これからくる隔離は第二段階。この期間でもっともエネルギーを注いだことは、いうまでもなく薬を手に入れることだった。
■官僚的な対応に終始する厚生労働省の女性担当官
16日間のクルーズが終わり、本当は前日、2月4日に下船のはずだった。しかし隔離によりさらに同じような長さの日数が加わった、それがなんと大きく全身にのしかかってきたことだろう。私たち2人とも、その落胆については触れようともせず、話もしなかった。話せば話すほど、落胆がひどくなることくらい二人ともわかっていたからだ。
それよりもやらなければならないこと、薬の確保だ。
船内放送では、乗客は部屋にとどまれという情報のほかに、厚生労働省の電話番号も放送していた。しかも各部屋備え付けの電話で通じると案内された。私たちは、船が外洋に出れば、その電話ですら通じなくなると焦っていた。先ほどからフロントと薬手配でかけ合っていた妻が、フロントでは埒(らち)があかないとわかるや、私より先に厚生労働省に電話をした。
先方の回答はまず船医の判断が優先されるので、船の医務室に問い合わせてくれとのこと。なんという官僚的な対応なのか、検疫は厚生労働省の判断で行っているのではないか、ならば厚生労働省も少しは動いてもよさそうなものだ。頭に血がのぼって次に私が電話をする。答えは同様。
今このように書いてきて思うのだが、厚生労働省はあらかじめ、私たちのこのような問い合わせを予想していたのではないか、あまりにも決まりきった即答であったからだ。若い女性がなんの躊躇(ちゅうちょ)もなく言い放っていた(しかし実際は、薬は厚生労働省が発注し、乗客に配った。いつ窓口が船医から厚生労働省に変わったのか、私たちは知らないままだった)。
■「年寄りばかりの船内、大問題になると思います」
当然のことながら、船の医務室には電話が通じない、次に再度フロント、これも同じくつながらない。私たちは混乱し、うろたえていた。おそらく混乱していたのは私たちだけではなかったはずだ、各部署が全部そうだと予想された。船は、昼ごろ私たちの最大の心配事をよそに、まるで無視するかのようにきっぱりと外洋に出ていった。私たちがうろたえた原因は、この船による“無視”が恐怖だったのかもしれない。
9:12 A記者とのショートメール交信
私「これから年寄りにとっては絶対必要な常備薬確保に動かなければなりません。先ほど私と妻がこの常備薬の件で、厚労省の窓口にTEL。まずは船内医師の判断になるとのこと。年寄りばかりの船内、大問題になると思います」
A記者「薬について同様のお話をほかの乗客の方からもお聞きし、先ほど高血圧の薬が切れ、困っていることを原稿にしました」
薬問題はどうやら多くの年寄りの問題となっているようだった。
■ウイルスの怖さより、薬が切れた肉体の苦痛のほうが怖かった
私の感覚ではウイルスの怖さより、薬が切れたときの肉体の苦痛のほうが怖かった。ウイルスが怖いという感覚は、ウイルスについての知識による想像からくるものだ。しかし薬が切れ、それによって引き起こされる肉体的な苦痛、不安はすでに実体験しているのだ。
鼻の閉塞がひどくなったときの眠れない苦しさ、やがて咳をともなった気管支喘息のような症状がそれに続く。このような苦しみはウイルスより何倍も現実的であった。妻の玲子もそれは同様である。ヘルニアという腰の痛みによって立ち上がれなくなる恐怖は、何ものよりも現実的なのである。
11:27 A記者とのショートメール交信
A記者「首相は国会で、まずは客室待機していただくことを徹底していかなければならないと述べ、感染拡大防止に万全を期す考えを示しています。ご参考までです」
私「連絡感謝! 先ほど全室への船内放送がありました。乗客は部屋にとどまってほしい。これから本船は外洋に出る。その後、食料積み込みのため横浜接岸予定。これらは朝の放送と同じです。朝食はまだ届けられず、です。まずペットボトルの水が届けられました。乗客の協力をお願いしたいとのこと」
結局、朝食は12時半ごろに届けられた。船はすでに外洋に向けて動き出し、私たちの部屋から横浜のランドマークタワーが見えるようになった。(続く)
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「ダイヤモンド・プリンセス号」乗船者
1947年2月18日生まれ。1970年武蔵大学経済学部卒業、1976年早稲田大学仏文科大学院修士課程中退。1976年東北新社入社。外国映画、海外テレビドラマの日本語版吹き替え・字幕制作、アニメーション音響制作、およびテレビCM制作に携わる。2011年3月に同社を退社し、現在は夫人とともに長野県在住。文学・思想誌「風の森」同人。世界中が注目した「ダイヤモンド・プリンセス号」に乗船し、隔離された船内の一部始終を目撃、同船内で73歳の誕生日を迎えた。
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(「ダイヤモンド・プリンセス号」乗船者 小柳 剛)
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