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パンデミックの恐怖に駆られた人々は、かつて自らに鞭を打って行進した

プレジデントオンライン / 2020年5月22日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Mari_Grand

パンデミックが起きると、人々は思わぬ行動に出ることがある。ペストが大流行した1300年代のヨーロッパでは、病を「神の与えた罰」と考えた人々が、贖罪の気持ちを表すべく「鞭打ち苦行行進」をしていた。一体何だったのか。歴史作家の島崎晋氏が解説する——。

※本稿は、島崎晋『人類は「パンデミック」をどう生き延びたか』 (青春文庫)の一部を再編集したものです。

■発症前のペスト患者が乗り込んだ船がヨーロッパへ

歴史上、何度もペストの禍に見舞われたヨーロッパだが、1347年から52年にかけて大流行したものは「黒死病」と呼ばれる。この名は死の直前、黒っぽい斑点で全身が覆われることに由来する。

このときのペストの発源地は中国南部か中央アジアのどちらかといわれる。どちらが正しいにせよ、当時のモンゴルの存在を無視して語れない。

13世紀、モンゴルの版図は中国大陸全域から西アジアにおよび、ロシア・東欧地域も属国化していた。14世紀に中央アジア以西のモンゴル政権でイスラム化が進展するとともに、ジェノヴァ人の植民地「カッファ」(現在のフェオドシア)と関係が悪化し、ついには戦争となる。

ジェノヴァ人の籠城戦が展開されるなか、ペストの被害が広がり始めた。ペスト患者が急増するに及んではもはや戦争どころではなく、攻め手は戦果がないまま撤退した。これを見たジェノヴァ人たちは本国への連絡のため、ガレー船団を派遣する。しかし、その船には発症前のペスト患者と感染ノミが取り付いたネズミも乗り込んでいた。

■船内は患者続出、寄港地で大流行が始まる

船団は「コンスタンティノープル」(現在のイスタンブール)、シチリア島の「メッシーナ」を経て本国に向かうが、航海途上の船団内は患者が続出してパニック状態にあった。当然ながら寄港地も感染を免れず、コンスタンティノープルでは1347年7月初旬、メッシーナでも同年9月末からペストの大流行が始まる。

両都市とも交通の要衝に位置していたことから、そこから四方への感染も早く、コンスタンティノープル発のものは翌々年までにイスラム圏全域とバルカン半島、東地中海の島々、メッシーナ発はロシア・東欧を除くヨーロッパ全域へと広がり、アイスランドやグリーンランドさえ例外とはならなかった。

相手が感染症とあっては王侯貴族といえども抗する術(すべ)はなく、1337年に始まる英仏間の百年戦争も1347年9月28日から足掛け9年の間は休戦を余儀なくされた。

この戦争はフランス王位継承に対し、イングランド王「エドワード3世」が異議を唱えたことに端を発する。フランス王フィリップ4世(在位1285~1314年)の弟の家系である「ヴァロワ家」より、フィリップの娘から生まれた自分こそ優先されるべきとしたのである。

■ヨーロッパ全体で「4人に1人」が死亡

開戦以来、イングランド側が終始優位に立っていた。けれども、ペストが相手では勝手が違い、無駄死を避けるには流行が下火になるまでただ待つしか道はなかった。戦争を中断させるほど凄まじいペストの猛威。ロシア・東欧での流行は1352年の夏に始まった。

それらも含め、全体でどれほどの犠牲者が出たのか。諸記録にある死者の数には誇張が多く、都市部からの逃亡者も死者として数える例が多いことから正確な数字は出しにくい。信憑性の高い史料によれば、イタリアのフィレンツェでは1250人いた大評議会のメンバーが380人にまで減少。北ドイツのハンザ同盟都市リューベックでは財産所有市民の25パーセント、市参事会委員の35パーセントがペストで死亡している。ヨーロッパ全体では4人に1人が死亡とする推計が比較的信頼がおけるものとされている。

黒死病の名で恐れられたこのペストの流行が一応の終息を見たのは、1388年頃のことだった。

■半裸で自らの身体に「棘付き」の鞭を打つ

隣人が次々に倒れ、死んでいく——。科学が発達していない時代、この恐怖に人は何かしら理由が欲しかった。「黒死病は神の意志である」として病にかかるのは不信仰に原因があるはず、と。そうなれば、贖罪(しょくざい)の気持ちを表そうと「鞭打ち苦行行進」という異様な行動が流行るのも無理からぬことでもあった。

「鞭打ち苦行行進」そのものは黒死病以前にもあった。人間が犯した罪の浄化のため、聖職者の先導のもとに口々に神の許しを乞い、反省の意思を表明していた。1260年かその前年にイタリアの都市ペルージャに現れたのが最初で、フランスやドイツ、チェコ、ポーランドなどに広がりを見せる。1261年にローマ教皇が禁止令を発したことでいったんは終息した。

しかし、人々の不安と恐怖が高まれば息を吹き返す。最初の発生地はイタリアのヴェネツィアで、ときは1348年8月のこと。黒死病が大流行の引き金だった。

ひとつの苦行団はだいたい100人規模で、徒歩での移動を重ね、都市や農村に入るときは二列に並び、先頭に旗や十字架をかざした。教会や大聖堂に到着すると広場に円陣をつくり、靴と上着を脱いで地面にひれ伏す。

犯した罪ごとに決められた姿勢を取る苦行者たちをまず団長が鞭打つ。それがひと通り終わったなら、今度は各人が自分に鞭打ちながら、声に出して許しを求める。

ここで使われた鞭は棒の先端に3本の革紐をぶら下げたもので、結び目には小麦粒大の金属製の棘が取り付けられていたというから、それで裸の上半身を打てば、肌が血だらけ、傷だらけになるのも無理はなかった。

■ユダヤ人街を襲撃し、大量殺戮

狂気に満ちた鞭打ち苦行行進への参加の波は、1349年初頭には東は中欧から東欧・北欧、西はフランスからイングランドへと拡散していく。

島崎晋『人類は「パンデミック」をどう生き延びたか』(青春文庫)
島崎晋『人類は「パンデミック」をどう生き延びたか』(青春文庫)

1349年5月、ドイツのフランクフルトに到着した苦行団がユダヤ人街を襲撃し、大量殺戮(さつりく)を行ったことが重大な転機となった。

教皇クレメンス6世が彼らに異端のにおいを感じ、南フランスのアヴィニョンへの入城を拒んだ。クレメンス6世の対処はそれで終わらず、1349年10月20日には苦行団を弾劾する大勅書を発し、各司教に苦行団の移動・活動禁止といった断固たる措置を取るよう命じてもいた。

それでも苦行団が収まらないと今度はフランス王フィリップ6世に依頼して、フランスからの追放令を公布させた。これをきっかけとして、フランス国内だけでなくヨーロッパ全体で苦行団の活動が急速に下火となり、1350年のうちに終息を見た。

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島崎 晋(しまざき・すすむ)
歴史作家
1963年東京生まれ。立教大学文学部史学科卒業。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て、現在、歴史作家として幅広く活躍中。主な著書に、『ウラもオモテもわかる哲学と宗教』(徳間書店)、『眠れなくなるほど面白い 図解 孫子の兵法』(日本文芸社)、『古事記で読みとく地名の謎』(廣済堂新書)、『ホモ・サピエンスが日本人になるまでの5つの選択』(青春新書プレイブックス)、『仕事に効く! 繰り返す世界史』(総合法令出版)、『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『覇権の歴史を見れば、世界がわかる』(ウェッジ)などがある。

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(歴史作家 島崎 晋)

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