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〈産業革命〉で一気に強国化!…「戦争で領地拡大」を“お家芸”としていた連合王国が〈アメリカ独立戦争〉で敗北を喫したワケ【世界史】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年5月2日 10時0分

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「産業革命」で生産技術と財力を圧倒的に高めた連合王国(イギリス)。得意の戦争を巧みに繰り広げ、植民地支配を進めていきますが、その身勝手な行動により、ついに植民地による反発が起こります。立命館アジア太平洋大学(APU)学長特命補佐である出口治明の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、当時の状況をくわしく見ていきましょう。

連合王国で偶然が重なり、「産業革命」が起きる

連合王国で産業革命が起きます。なぜ起きたかというと、きっかけはインドです。

17世紀にイングランド(のちの連合王国)は、ネーデルラントと争った末に、モルッカ諸島などの東南アジアをあきらめて、インドで我慢しようと決めたのでしたよね。それでインドをあらためて調べたら、かなりのお金持ちだったのです。

インドは中国とヨーロッパの交易の中間地です。そしてインドに寄港した船は水や食料だけではなく、服を買っていました。だって海で仕事をしていたら、服はずたずたになるでしょう。だからインドは綿織物で儲かっていたのです。それを見て連合王国は「そうか、綿織物は儲かるのか。うちもつくろう」と思いました。

ちょうどそのころ、イングランド本国では木をみんな切り倒してしまって、燃料にする木がほとんどなくなっていました。燃やすものがなかったら冬を越せないので、石炭を掘り始めました。ところが湿地帯なので、少し掘っただけで水がたくさん出てきます。それを人手でくみ出していたら、みんながくたくたに疲れてしまいました。

すると、ニューコメン蒸気機関を使った排水ポンプをつくったのです。蒸気機関の仕組みそのものは、紀元前後のアレクサンドリアで発明されていましたが、実用化したのはニューコメンです。お湯を沸かしたときにやかんの蓋が飛ぶのを見て、この蒸気の力を使ったら排水ポンプができるんじゃないかと考えたのです。

ニューコメンの蒸気機関は、上下運動だけでした。それをワットが、回転運動に変換できるように改良して、いろんな機械に蒸気機関を使えるようになりました。これが産業革命のスタートで、連合王国では、綿織物が機械でつくれるようになりました。

かわいそうなのはインドです。インドの綿織物は人力でつくっていて、機械に負けてしまいます。インドの綿織物産業は衰退して、逆に綿織物の輸入国になりました。そうなると、綿織物の代金を払わなくてはなりません。すると東インド会社が、お茶やアヘンなどの輸出作物をつくれといいます。仕方なく輸出作物をつくるようになると、米や麦といった食料が足りなくなり、それをまた輸入しなくてはならなくなります。

だから、インドは産業革命によって「両腕を切り落とされた」といわれます。今までは食料もたくさんつくれたし、綿織物もたくさんつくって儲けていたのに、両方ともつくれなくなって、連合王国の植民地になっていくわけです。

こうやって考えたら、産業革命は偶然の産物です。連合王国がインドに集中した。本国で木を切りつくした。そこで石炭を掘ったら水が出た。そんな偶然の積み重ねから産業革命が起きました。けれど、そこから連合王国は圧倒的に強くなりました。そこからさらに、ヨーロッパが世界の覇権を握るという偶然がもたらされるのです。

ワーカホリックな雍正帝の跡取りは贅沢を極めた

このころ、中国は乾隆帝の時代です。ワーカホリックな雍正帝の跡を継いだ乾隆帝にはお金がたくさんあって、ぜいたくを極めた皇帝でした。中国南部を巡る贅沢な大名旅行を6回もやりました。

大名旅行の道中には、おいしいものが欲しいですよね。そんな気持ちを忖度する人が山ほどいたので、「満漢全席」ができました。満洲族と漢民族のよりすぐったごちそうをすべて集めるという豪華な中国料理の原点です。

1757年、乾隆帝は外国との交易を広東の広州一港に絞りました。中国のお茶が欲しい連合王国は不満でしたが、中国の方が国力は強かったので従うしかありません。そして1763年の調査で初めて、中国の人口は2億人を突破します。雍正帝の時代には1億4,000万人ほどでした。

連合王国のお家芸は「一気に倒さず、仲間割れを誘う」

七年戦争のときに連合王国は、インドからフランスを追い出していましたね。その後、連合王国の東インド会社が、どんどんインドを攻めていきます。東インド会社は軍事権と外交権を持っていましたね。1765年にムガール朝を負かすと、南インドのマイソール王国と戦端を開き、4回にわたって戦争します。さらにデカン高原を巡ってマラーター同盟と戦端を開くと、こちらも3回にわたって戦争します。

東インド会社が、同じ相手と3回、4回と戦っているのはなぜでしょうか。最初にちょっと勝つと、いったん戦争をやめてしまうからです。連合王国には近代的な大砲があるので、戦争をすれば最初は勝ちます。

けれど、相手は兵隊の数が多くて必死に抵抗しますから、こちらにも損害が出ます。そこで戦争をやめてしまうと、相手は内輪揉めを始めます。負けているわけですから、誰のせいかといった責任追及が始まるわけです。

そうやって相手が仲間割れを起こすと、弱い方に肩入れします。それからまた戦争を仕掛けるということを繰り返すと、相手は消耗していきます。全力を挙げたら一気に倒せるかもしれないけれど、こちらの怪我も大きくなる。そういう無理はしないで、少しずつたたいていって、損害を最小限に抑えるわけです。「分割して統治せよ」という言葉があります。

連合王国はこれがめちゃうまくて、お家芸なんですね。

人口3億人を突破した中国は、連合王国を相手にせず

中国ではさらに人口が増えて、1790年に3億人を突破します。これは16世紀後半にアメリカ大陸が原産のトウモロコシやジャガイモ、サツマイモといった、収穫量が多い作物が入ってきたからです。

1793年には、連合王国のマカートニーという使節が乾隆帝に会うことを許されます。マカートニーは「もっと港を開いてください。広州だけではお茶も絹も十分に手に入りません」と懇願します。けれど乾隆帝は「会ってやるだけで感謝しろ」といった態度です。

連合王国には中国から輸入したいものがたくさんありましたが、中国には海外から輸入したいものなどなかったからです。だから対等な貿易なんて考えられなかったわけです。この時期になってもまだ、それくらいの格差が中国とヨーロッパの間にあったということです。

乾隆帝の治世は長く、その間に政治は堕落していきました。

七年戦争のコストが、アメリカ独立戦争を引き起こす

アメリカの独立の話です。七年戦争を思い出してください。連合王国はヨーロッパ戦線には兵隊を送らず、ひたすらインドと北アメリカに兵隊を送って、戦争したのでしたよね。それで北米大陸に広い土地を得ました。

ということは、連合王国は北アメリカの戦争に、大きく投資したわけです。だから「金を回収せなあかん」という話になりました。身勝手なロンドンの議会は「アメリカでやった戦争だから、アメリカ人に払わせたらいい」と考えて、植民地の課税をがんがん強化します。それが砂糖法印紙法タウンゼント諸法といった法律です。

けれど、ロンドンの議会に北アメリカの代表はいません。それにそもそも、北アメリカで戦争したのもロンドンの議会が勝手に決めたことで、そのためにアメリカ人も徴兵されて、土地も荒らされたわけです。さらに、その金を払えというのですから、怒ります。

ここに「代表なくして、課税なし」という有名な言葉が生まれます。意見をいわせないで、金だけ徴収するなんて許せないという怒りが、アメリカ独立の根源です。

アメリカから自由平等を持ち帰ったフランス義勇兵

こうしてアメリカ独立戦争が始まります。アメリカ植民地と連合王国が戦うわけですが、連合王国にはフランスも腹を立てています。七年戦争で、北米のフランス植民地を根こそぎ奪われましたから。だから、アメリカ独立戦争では、フランスから多くの義勇兵が植民地軍に加わって、連合王国と戦います。一種の仕返しです。

アメリカは勝って独立しました。義勇兵として戦ったフランス人の貴族や将兵も、気分が高揚します。勝利はもちろん、ロンドンの支配に屈せず、植民地の人間も本国の人間も同じ人間だという、自由平等の精神に酔いしれます。「はしか」のようなものです。これをフランスに持ち帰るわけです。

このときフランスはルイ16世の時代です。ルイ14世、ルイ15世の散財がたたって、国家の借金が大変な金額になっているところに、絶対王制です。アメリカで自由平等の「はしか」にかかった人たちが帰ってきたら、ひどいと思うのは当然です。

黒海への道を切り開いたエカチェリーナ2世は「大帝」となる

ロシアのエカチェリーナ2世は有能な君主で、オスマン朝に衰退の兆しを見ると、戦争を仕掛けます。1774年のキュチュク・カイナルジ条約で、黒海北岸に領土を得て、黒海の自由航行権をオスマン朝に認めさせます。クリミア半島もゲットしました。

ロシアにとって、南方の暖かい港を得ることは国家戦略上、重要でした。黒海には戦略的な意味があったわけです。だから、エカチェリーナ2世はピョートル1世と並んで「大帝」と呼ばれるようになりました。ロシアの皇帝で「グレート」を付けて呼ばれるのは、この2人だけです。

ピョートル1世はサンクトペテルブルクを建設してバルト海への道を切り開き、エカチェリーナ2世はクリミア半島を手に入れて黒海への道を切り開いたということで、歴史上高く評価されているのです。

出口 治明 立命館アジア太平洋大学(APU) 学長特命補佐

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