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藤川球児「最後の火の玉ストレート」が矢野燿大監督でなければならなかったワケ

プレジデントオンライン / 2021年2月14日 9時15分

引退セレモニーで、阪神の矢野燿大監督(手前)に向けラストピッチングをする藤川球児投手(甲子園=2020年11月10日) - 写真=時事通信フォト

2020年シーズンを最後に、「火の玉ストレート」を武器にプロ野球界に鮮烈な記憶と記録を残した藤川球児氏が現役を引退。阪神でのクローザーとしての活躍、メジャーでの挫折、そして、心ない声に奮起してのNPBでの復活……。引退した今、仲間たちやファンに初めて明かす「真実」とは──。(第2回/全2回)

*本稿は、藤川球児『火の玉ストレート』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。

■最後にもう一度150キロのストレートを…

じつは、僕にはひそかな企(たくら)みがあった。引退試合で150キロのストレートを投げることである。

プロ野球選手としての人生を俯瞰(ふかん)したとき、僕にはどこかの時点で技巧派に転じるという選択肢もあった。球速は130キロ台後半でも、投球術を工夫することでのらりくらりと打者を翻弄(ほんろう)するようなスタイルに転じていれば、選手寿命はもっと延びていたと思う。技術的には、十分に可能だった。

だが、老獪(ろうかい)な投球術で相手を完璧に抑えることができたとしても、それはもう藤川球児ではない。藤川球児という投手は、どこまでも「火の玉ストレート」で勝負すべきだった。

そのスタイルのまま、僕はユニフォームを脱ぎたかった。最後のマウンドで150キロのストレートを投げることができれば、スタイルを貫いたことになる。難しいが、決して不可能な球速ではない、と思った。

■引退表明後のどこかいつもと違う甲子園球場で

2020年9月1日に行なった引退会見のあと、僕は大きな反響を感じながら、少しずつ体を動かしていた。

肩と肘が元に戻ることはないが、できるかぎり早く1軍に戻って、ファンのみなさんに最後のストレートを見届けてもらいたい。焦りそうになる気持ちを抑え、僕は根気強くコンディションの回復を待った。ようやく1軍に戻れたのは、10月半ばだった。

10月20日、甲子園で行なわれた対広島戦で、引退表明後、僕ははじめてのマウンドに立った。

気のせいか、それまでの甲子園とは、どことなく雰囲気が違っていたように感じた。ほとんどの方が客席からスマホを掲げて僕に向けている様子を見て、僕は引退が迫っていることをじわじわと実感した。

その2日後、再び甲子園のマウンドに立つと、その後は名古屋、横浜と転戦した。ナゴヤドームでも横浜スタジアムでも、思いがけず、僕の引退セレモニーを用意してくれていた。

敵地でのこうした厚遇は、あまり例がないに違いない。選手が引退を表明すると、もはや敵も味方もなくなってしまうことがよくわかった。

■11月10日、最後のマウンド、現役最後の1球

やがて、11月10日、甲子園で行なわれた巨人との最終戦が、僕の最後のマウンドになった。

僕がマウンドに立ったのは、9回表の1イニングである。

ひとり目は、代打の坂本勇人選手だった。その1球目、148キロが出た。いける、と思った。三振には打ち取ったが、あと2キロが出なかった。

ふたり目は中島宏之選手が代打に立った。1球目、149キロが出た。こんどこそいけると思ったが、やはり届かない。4球目、僕は渾身(こんしん)の力をボールに込めようとして振りかぶって投げた。だが、147キロしか出なかった。中島選手も三振に倒れたが、あと1キロ届かなかった。

最後の打者となったのは、重信慎之介選手だった。その初球、僕は再び振りかぶって投げたが、やはり150キロは出なかった。そして、2球目で内野フライに打ち取って、僕のプロ野球選手としての人生は終わった。

その日、投げたボールは12球である。最速は149キロだった。僕のひそかな企みは、こうして失敗に終わった。僕らしい、といえば、いかにも僕らしい。

■「僕のラストピッチは矢野さんに」

これまで、何球くらい受けてもらっただろうか──。

巨人との試合のあと行なわれた僕の引退セレモニーで、マウンドに立ってキャッチャーの矢野耀大(あきひろ)さんに向き合ったとき、ふとそんなことを思った。22年間の現役生活で、最も多くのボールを受けてくれたのが矢野さんだったことは、間違いなかった。

当初、現役の監督である矢野さんから花束をいただくだけだった引退セレモニーの変更をお願いしたのは、僕である。無理を承知で、花束をいただく前に、僕のラストピッチングを設定してもらった。

現役最後のボールは矢野さんに捕ってもらおうと決めていたのである。そうしなければ、僕は死ぬまで後悔し続けるかもしれない。そう思うだけの理由があった。

■最後の機会

ちょうど10年前の9月30日、甲子園。本拠地での最終戦の相手は横浜だった。試合後には、矢野さんの引退セレモニーが予定されていた。

そのシーズンの阪神は投打ともに好調で、最終盤まで巨人、中日と優勝を争っていた。数日前には、9試合を残していた2位の阪神に優勝マジック8が点灯するという混戦だった。

その日、3回裏に1点を先取した阪神は、4回表に追いつかれたものの、4回裏と5回裏に1点ずつ追加して、横浜を引き離した。

2点リードのまま迎えた9回表、僕はマウンドに向かった。登場曲はいつものLINDBERGではなく、FUNKY MONKEY BABYSの曲だった。そのシーズンの矢野さんが打席に向かう際のテーマ曲だった。

引退セレモニーを試合後に控えていた矢野さんは、もはや満身創痍(そうい)といった状態だった。このシーズンも故障が長引き、結局、数試合に出場しただけだった。

だが、甲子園のファンのみなさんに、矢野さんに現役最後の姿を見届けてもらわなければならない。9回表に登板した僕が2つアウトを取ったら、城島健司さんに代わって矢野さんがマスクをかぶる予定になっていた。

■白球の会話

それまで修羅場(しゅらば)は何度もくぐってきたはずなのに、その日、僕のボールは荒れていた。先頭打者を四球で歩かせ、ふたり目の打者にも四球を与えて、ノーアウト一、二塁になった。

そして、4番の村田修一さんが打席に立ち、僕が投げた高めのストレートはスタンドに運ばれた。

藤川球児『火の玉ストレート』(日本実業出版社)
藤川球児『火の玉ストレート』(日本実業出版社)

その瞬間、矢野さんの出場機会は失われた。そして、9回裏の攻撃は無得点に終わり、逆転負けを喫した阪神の自力優勝も消えた。

「球児が打たれたのなら、しかたない」

引退セレモニーの際、出場機会を失わせてしまったことを謝ると、矢野さんはそう言って僕をなぐさめてくれた。だが、それ以来、僕がこの日の出来事を忘れることはなかった。

僕の引退セレモニーでのラストピッチングは、絶対に矢野さんがキャッチャーでなければならなかった。それは、僕のわがままである。

だが、球団も、矢野さんも、僕の最後のわがままを快く受け入れてくれた。おかげで、僕は何も思い残すことなくユニフォームを脱ぐことができた。

僕の現役最後の1球は高く浮いて、矢野さんは立ち上がって受けた。その日のために用意されていたのは、矢野さんが現役最後に使っていたミットだった。

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藤川 球児(ふじかわ・きゅうじ)
元プロ野球選手
1980年7月21日生まれ。高知県高知市出身の元プロ野球選手。高知商業高校から98年ドラフト1位で阪神タイガースに入団。2005年、「JFK」の一角として80試合に登板してリーグ優勝に貢献。06年シーズン途中からクローザーに定着。以降、絶対的守護神として活躍。07年には日本記録となる46セーブをマーク。13年にメジャーリーグ、シカゴ・カブスへ移籍もケガのため、オフにはトミー・ジョン手術を受けた。15年はテキサス・レンジャーズで故障からの復帰を果たすも、5月にメジャー40人枠を外れ自由契約となり、四国IL高知へ。16年に阪神に復帰。17年は52試合に登板し、ベテラン中継ぎとして投手陣を取りまとめる。20年シーズン終了時点におけるセ・リーグシーズン最多セーブ記録保持者(46セーブ)であり、現役最多セーブ記録保持者(243セーブ)として、同年シーズンかぎりで現役を引退。

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(元プロ野球選手 藤川 球児)

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