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「少年同士の恋愛を少女に届けたい」竹宮惠子が日本最初のBL漫画を世に問うまで

プレジデントオンライン / 2021年5月2日 11時15分

竹宮惠子、知野恵子『扉はひらく いくたびも』(中央公論新社)

巣ごもり需要で、男性同士の恋愛を描いたBL(ボーイズラブ)マンガが好調だ。ブームの源流は1970年代、漫画家・竹宮惠子さんが世に出した『風と木の詩(うた)』。しかし竹宮さんがこの作品を世に問うまではたいへんな道のりがあった。ジャーナリストの知野恵子さんが聞いた――。

■電子コミックの販売冊数は前年比154%増

BLマンガが売れている。リアル店舗と電子のハイブリッド書店「honto」が3月末に発表したデータによると、BLマンガの販売冊数は紙・電子合計で前年比131%増、電子は154%増となった。

合わせて「BLに関する意識調査」も実施したところ、読みたくなるのは、「リフレッシュ/ストレス発散したいとき」と8割以上が回答、「脳や心に甘い糖分がほしいなと思うとき」「寝る前にご褒美として」という答えもあった。BLの魅力は、「性別、年齢、立場を問わず楽しめる」が約6割と最も多く、「現実逃避ができる」「壁を乗り越える愛にときめく」「自分にまったく関係ない世界なので良い」などと続いた。BLを買い始めた年齢では「10代」が約半数を占め、若い世代が手に取っていることが分かる。

■構想は7年にもおよんだ

BLはマンガの世界にとどまらず、マンガを原作にした実写映画、テレビドラマなどさまざまな表現手段へと発展を続けており、話題に事欠かない。今年1月には、ヤマシタトモコさんの『さんかく窓の外側は夜』(リブレ)の実写映画が公開された。よしながふみさんが講談社のマンガ雑誌「モーニング」に連載中で、テレビドラマ化もされた『きのう何食べた?』の実写映画も、今年公開される予定だ。

大学の研究者によるBL研究も盛んで、昨夏には、六法全書や法律関連書籍の発売で著名な有斐閣が『BLの教科書』(堀あきこ関西大他非常勤講師、守如子関西大教授編)を出版し、話題になった。

BLは一つのジャンルとして定着した感があるが、1970年代に『風と木の詩』が少女マンガ誌に掲載されるまで、竹宮惠子さんは7年もの日々を費やすこととなった。筆者が3月に上梓した『扉はひらく いくたびも』(中央公論新社)には、その様子が描かれている。

■いきなり少年同士のベッドシーンから始まり…

1976年、小学館の「週刊少女コミック」で『風と木の詩』の連載がスタートするが、いきなり少年2人のベッドシーンから始まるという衝撃的な作品だった。

掲載に至るまでの道のりは長く険しかった。竹宮さんは冒頭50ページをクロッキー帳に描き、さまざまな編集者に見せて掲載を打診したが、反応は冷たかった。特に冒頭のベッドシーンへの反発が強く、「別の穏当なもので話を始め、ベッドシーンは中盤に入れたらどうか」と言われることが多かった。

しかし竹宮さんはこだわった。「この物語を最も反映しているページを最初に持ってきたい。その形で始められないのだったら、意味がない」

『風と木の詩』
画像提供=ⓒ1976 Keiko TAKEMIYA

当時の少女マンガは、パターン化していた。1950年代後半~60年代前半の高度成長期、週刊マンガ誌が次々と創刊され、少女マンガでも、1962年に「週刊少女フレンド」(講談社)、63年に「週刊マーガレット」(集英社)、70年に「週刊少女コミック」(小学館)が誕生する。

当時、少女マンガ誌の編集者は男性ばかりで、「女の子はこういう話や絵が好き」など、男性目線で編集をしていた。マンガの登場人物やストーリーもパターン化していた。例えば、主人公はかわいそうな少女、健気な少女、美しく可愛い少女。病弱だったり、両親に早く先立たれたり、いじめにあったりなど、不幸が押し寄せる。読者に「このかわいそうな女の子を助けてあげたい」と思わせることが、人気を得るための秘訣と考えられていた。

■冷遇された女性漫画家たち

そんな中、女性漫画家の間から「24年組」と呼ばれる女性たちが登場する。昭和24年(1949年)前後に生まれた女性漫画家のことで、竹宮さんのほか、萩尾望都さん、大島弓子さん、青池保子さん、山岸凉子さん、ささやななえこさんなどがいる。こうした若い女性漫画家たちが、少女マンガの世界に変革をもたらす。

『扉はひらく いくたびも』の読みどころのひとつは、この時代の女性漫画家がどのような地位に置かれ、何を考え、それをどう変えてきたかというところにある。

当時、女性漫画家は、男性漫画家より低く見られ、原稿料も安かった。結婚するまでの腰掛仕事のように言われ、使い捨てのように扱われもした。

「24年組」と呼ばれる若手女性漫画家たちは、そんな「常識」を覆していく。竹宮さんは「男性編集者が女性漫画家たちに指示するのは、彼らが売れ筋と考える絵やストーリー。それは結局、男性に分かる範囲が決まっているということなんですよね」。その結果、ひとつヒット作が出ると、似たような作品がいっぱい出てくることになる。

■“その先”を描かないのはごまかしではないか

そうした中、竹宮さんは、一つのアイデアを温め続けた。当時、少女マンガは、健康的な恋愛のみを描くよう編集者から要求された。「男女が出会ってハッピーエンドを迎えても、その先はない。あるいはいきなり『こんにちは赤ちゃん』みたいなファミリーものになっていた」(竹宮さん)。読者の少女たちもごまかしに気づき、精神的なものだけでなく肉体的なものも描いてほしい、と言う。だが、一方で露骨な肉体的な表現は嫌がる。

複雑な少女の心にどう応えたらいいのだろうか……。竹宮さんは、少女の代わりに美しい少年同士の物語として描けば、生々しくならず、少女たちに受け入れられる、と考える。「少女マンガのテーマってやはり愛でしょ、と言われますが、そうであるなら私にはこの表現しかない」。それを結実させたのが、『風と木の詩』だ。

hontoのアンケートでBLを読みたくなるのは「リフレッシュ/ストレス発散したいとき」という答えが多数を占めたが、元祖BLは、悩み苦しんだ中から生まれたのだ。

『風と木の詩』
画像提供=ⓒ1976 Keiko TAKEMIYA

■今のブームは「意外中の意外」

76年から連載を開始するが、世の中に出すことへの怖さがあったという。

「読者ターゲットは中学2年生でした。すごい反発があるかもしれないし、こんなもの汚らしいと言われるかもしれない。怖いけれど、これを世に問えないなら、私が漫画家をやっていても仕方がない、という気持ちすらあった」と竹宮さん。

『風と木の詩』は大ヒットし、少女マンガにはこういう需要があると、出版社も男性編集者も気づく。78年には女性の目から見た男性同士の愛を描いた耽美派雑誌「June」(マガジン・マガジン)も創刊され、竹宮さんはこの雑誌の表紙絵を担当する。BL市場が生まれ始める。

『風と木の詩』について、京大教授や文化庁長官などを歴任した心理学者・河合隼雄さんは「思春期の少女の内的世界をここまで表現した作品は、おそらくなかったのではないか」と新聞へ寄稿した。文化人たちのこうした評価を得て、苦闘の末に生み出されたBLは、マンガの表現形態のひとつとなり、今なお発展を続け、現在のブームを生む。

竹宮さんは、少年同士の愛という新たな表現手段で、少女たちの思いに応えたわけだが、ご本人は、現在のようなBLブームが起きようとは想像すらしていなかったという。「こんなふうに開けると全然思っていなかったので、意外中の意外。隔世の感があります」と語る。

■日本初の「マンガ学科」教授に

『扉はひらく いくたびも』では、BLだけではなく、昭和から現在に至るまでのマンガや出版業界、日本の社会の歩みや変化も取り上げている。

1950年代後半~70年代前半の高度成長期。出版社は好調で勢いがあった。64年東京五輪を前に、東京は高速道路やビルなどの建設が進み、急ピッチで姿を変えていく。そんな社会の様子が、竹宮さんの目や感性を通じて語られる。

東京の航空写真
写真=iStock.com/ansonmiao
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ansonmiao

竹宮さんは50歳の時に、日本初のマンガ学科を創設した京都精華大学教授に転身し、2014年からは学長も務める。教授時代から、デジタル化という新たな動きに対応すべく、授業内容などに工夫を凝らした。そこも本書の読みどころのひとつだ。

■日本発コンテンツの先駆者として

20年3月に京都精華大を定年退職したが、その後も新たな挑戦を続けている。今年3月に発刊した新版『エルメスの道』(中央公論新社)は、70歳にして初めてデジタル制作に挑戦した作品だ。パソコンとソフトを活用し、アシスタントも使わずに1人で描き上げた。年齢を重ねることで、ペンを握る力が弱ったり、目が悪くなったりするなどの肉体的な衰えを意識してのデジタル化でもある。これからもずっと描き続けていくための決断だった。

マンガ文化がどう変貌してきたかも、本書から読み取ることができる。現在の日本は、ICT(情報通信技術)で海外に遅れをとり、新型コロナワクチン開発でも出遅れるなど、国内産業は振るわない。そんな中、日本発コンテンツの代表格であるマンガへの期待は大きい。『扉はひらく いくたびも』は、戦後日本のマンガ文化を築いていたマンガ界の大御所による貴重な「証言」である。

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知野 恵子(ちの・けいこ)
ジャーナリスト
東京大学文学部心理学科卒業後、読売新聞入社。婦人部(現・生活部)、政治部、経済部、科学部、解説部の各部記者、解説部次長を経て、編集委員を務めた。約35年にわたり、宇宙開発、科学技術、ICTなどを取材・執筆してきた。1990年代末のパソコンブームを受けて読売新聞が発刊したパソコン雑誌「YOMIURI PC」の初代編集長も務めた。

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(ジャーナリスト 知野 恵子)

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