「自分の立場でやれることをやる」敗戦を確信していた陸軍将校が広島でやり遂げた仕事
プレジデントオンライン / 2021年10月10日 11時15分
■戦時中、宇品には旧日本軍最大の輸送基地があった
1945年8月6日、なぜアメリカは広島の市街地を原爆投下のターゲットに選んだのか――。ノンフィクション作家の堀川惠子さんが、その問いの先に「宇品(うじな)」というテーマを見出したのは、10年ほど前のことだ。
当時、堀川さんは夫の付き添いで月2回ほど大学病院に通っていた。待合室で診察を待つ間、たまたま持ってきていたアメリカによる原爆投下地点の選定委員会の資料に、「重要な軍隊の乗船基地」という記述を見つけた。「あれ? これって『陸軍の宇品』のことだよな、と驚いたんです」と彼女は振り返る。
「広島に生まれ、かつて記者をしていた私にとっても、宇品というのはあまりに印象の薄い場所でした。広島の中心地から4キロほど離れた埋め立て地の先の先。マツダの工場がある以外は、古いドックや倉庫があるだけで、わざわざ行く理由のない場所でしたから。この数年の再開発で大きく変わりましたが、戦時中、そこに旧日本軍最大の輸送基地があったという感覚は、ほとんどの広島市民にはないはずです」
広島県の軍港といえば、戦時中は戦艦「大和」が建造された「海軍の呉」がある。現在も海上自衛隊の拠点がある場所だ。だが、広島には「陸軍の宇品」もあった。当時、宇品港は日本最大の輸送基地であり、船員や工員を含め約30万人が働いていた。船舶司令部の兵隊たちは「暁部隊」と呼ばれ、原爆投下後の広島市街地でも救援活動を行っている。
■一隻の船もなかった陸軍が、海洋輸送体制を作り上げるまで
宇品に陸軍の船舶輸送の拠点が置かれたのは日清戦争の最中。明治期、海軍からの協力を拒否された陸軍は、もともと一隻の船も持っていなかった。よって海洋輸送体制を作り上げることは彼らの重要な課題であり、莫大な投資によって一大輸送基地として整備されたのが「宇品」だった。
だが、日露戦争が終わった「戦間期」になると、いわゆる「兵站軽視」の傾向の中で「宇品」は放置される期間が続いたという。そんななか、堀川さんが『暁の宇品』の主人公の一人として注目したのが田尻昌次(しょうじ)という将校だった。
田尻昌次は日露戦争最中の明治38年に陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学校を卒業後に宇品に配属された。その後、東京の参謀本部に所属してから、再び宇品の陸軍運輸部(後の船舶司令部)へ。そして昭和15年までの9年間、宇品に在籍した。
田尻が行ったのは「宇品」の近代化である。軍用の舟艇の開発やそれを操舵する船舶工兵の育成の仕組み作りなど、陸軍の「船舶輸送体制」の多くを整えた。そんな彼は後に「船舶の神」とも呼ばれた。
■田尻が率いた船舶司令部と参謀本部の間の緊張感
だが、田尻はいよいよ太平洋戦争が始まるという大事な時期に、何故か軍を去っていた。船舶司令部で不審火騒ぎがあり、その責任を取らされる形で参謀本部から事実上罷免されたという。本書ではその「謎」を追う執拗(しつよう)な調査の後に、「戦争を遂行するための補給兵站問題」という巨大なテーマが立ち現れることになる。
「中将だった田尻が不審火騒ぎで罷免されるのは明らかに不穏でした。そして、軍事史の研究者に話を聞くと、『どうも田尻さんは戦争に反対して首を切られたんじゃないか』とも言う。本人や家族の手記にも火事への疑問が記されていました。さらに調べると、彼の率いた船舶司令部と参謀本部の間の緊張感が見えてきたんです。田尻たちに対して参謀本部は『おまえらは黙って輸送だけやっていればいいんだ』と疎ましく感じていたようでした」
太平洋戦争での敗戦の理由に、「兵站軽視」があったことはよく知られている。では、さらにその背後にあったものとは何だったのか。船舶司令部と罷免に至る田尻の歩みを追うことを通して、本書が浮かび上がらせる本質が「日本の船舶不足」の問題だ。
■参謀本部の「ナントカナル」という極めて楽観的な見通し
日中戦争の際、陸軍は民間の小型船を次々に船員ごと徴用し、軍の輸送業務に使用していた。だが、民間の船の徴用が増えれば、国内の輸送はたちまち圧迫されることになる。資源を運ぶ民間輸送の逼迫は、結果として軍備をも細らせる。だからこそ、限られた船をいかに「軍需」と「民需」に割り振るのかという判断は、彼らが戦争を遂行していく上での重要なテーマであるはずだった。故に田尻は様々な軍用船の開発に取り組み、それを軍人が操舵する仕組みの必要性を繰り返し訴えていた。
ところが、参謀本部は「軍需」を優先。民間船の徴用が続けば続くほど、日に日に「民需」への圧迫も深刻化し、国力そのものを弱らせていく。にもかかわらず、参謀本部は「ナントカナル」という極めて楽観的な見通しによって、さらに「南進」政策を進めようとしていた。
海上輸送の最前線の「現場」を預かる田尻の危惧は大きかった。そんななか、堀川さんが見つけ出した資料が、彼が参謀本部と陸軍省に宛てた「民間ノ船腹不足緩和ニ関スル意見具申」と題する具申書だ。本書に全文が紹介されるその資料を発見したとき、堀川さんは思わず息をのんだという。「意見具申」の相手は厚生省や大蔵省、鉄道省など、船舶輸送に関係する全ての省に及んでおり、それが軍中枢へ宛てた〈建白書〉のように思えたからだ。
■不審火騒ぎで罷免されるまで、田尻は闘い続けた
田尻は各省に向けて、日中戦争における軍事徴用の増大がいかに民間を圧迫し、国内の物流の妨げになっているかを訴えていた。日本の船舶輸送の危機的状況を説明し、南進論を牽制する彼の主張には、まさに〈捨て身の覚悟〉が感じられた。だが、そんな必死の意見具申を上層部は握りつぶす。その先にあったのが前述の「不審火」であった――。
「船舶司令部という組織で常にベストを尽くそうとする田尻の生き方が、戦争が近づいてくるに従って『国家』とぶつかった。では、『個』が正しいと思う方向と『組織』の意向が一致しなくなったとき、何が起きるか。不審火騒ぎで罷免されるまで、田尻は闘い続けたわけです」
また、田尻の軍人としての半生を追いかけながら、堀川さんは次のような思いにとらわれたと話す。
「『船舶の神』とさえ呼ばれた田尻ですが、一方で陸軍という組織の中では傍流の存在でした。彼は海に近い横浜で育ったとはいえ、もともと海洋や船舶についての知識は全くなかった。その彼は船舶司令部という予算もまともにつけてもらえない組織で、近代戦を戦うために必死にあがいた。大発動艇(大発)など新しい船の開発を世界に先がけて成功させるだけではなく、組織の改革にも言及し、軍政にかかわることにもかかわる大仕事もやる。そこに田尻という将校の凄味がありました」
■もし田尻を活かしたまま、太平洋戦争が開戦していたら…
田尻は軍の船舶不足という課題を具申するだけではなく、実務家として優れた人物だった。例えば、「南進」を前に船舶不足を指摘する一方、彼は南太平洋海域での戦闘を想定した海上機動作戦を検討していたという。そして、そのための「SS艇」の開発を同時に進め、罷免される直前には試作艇まで作っていた。
「つまり、彼は意見を言うだけではなく、セカンドベストを用意していたわけです。こうした極めて冷静な実務家こそ、本来、組織は大事にしなければならないはずでしょう。参謀本部はそうした人材を切った。もし田尻を活かしたまま開戦し、作戦区域を限定して国防圏を固め、外交がもっと機能していたら、大きな構造の中では負け戦であっても、もう少し早い状況で講和のための有利な条件を引き出せたのではないか。日本のあらゆる都市が空襲で焼かれ、原爆を投下されるようなひどい状況にはならなかったのではないか。取材を続けながら、私はそんな想像をしたくなりました」
「船舶の神」を失った宇品は、アメリカとの泥沼の戦争に突入すると、次第に機能を失っていく。船舶が失われても最期まで兵站を支えようとする司令官たちの奮闘は胸に迫るものがある。
■宇品の最期の司令官となった佐伯文郎の存在
堀川さんは南方に本部が移された司令部の動きを詳細に調べ、2万人以上の日本兵が犠牲になったガダルカナル島の戦闘などを、「宇品」からの視点でさらに見つめた。
とりわけ作中で印象的なのは、宇品の最期の司令官となった佐伯文郎(ぶんろう)の存在だ。
宮城県出身の佐伯は士官学校から陸大へと進み、卒業後すぐ参謀本部に配属されたエリートだった。日中戦争では歩兵旅団の旅団長も務めた。
「宇品」が船舶輸送の拠点から「特攻」を担うようになるなか、彼はどんな思いで船舶司令部の最期を見届けようとしていたのか。田尻は戦後に多くの記録を自らの責務のように残したが、佐伯は自らについてほとんど語っていなかったという。
■原爆投下から35分後、「暁部隊」を被災地に向かわせた
だが、彼は広島の原爆投下に際して、ある一つの「決断」を自ら下している。原爆投下から35分後、なけなしの「暁部隊」を被災地に向かわせ、救援活動を始めたのである。本土決戦に向けての「沿岸防衛」のための部隊を人命救助に使う――その背景には関東大震災のとき、「交通担当参謀」として交通インフラの復旧を担当した経験があったという。堀川さんはそこに「組織人を越えた人間としての発露を見た」と語る。
「佐伯は非常に優秀な官僚、組織人でした。しかし、彼の不幸は自身の能力を発揮するための組織が、着々と破滅に向かっていったことです。この本の中で私は、そのぎりぎりの苦悩を感じてほしい、と思いながら佐伯の人物像を描きました。佐伯もまた田尻と同様に、『個』と『組織』のはざまで苦しみ、おそらくは敗戦を確信しながら、船舶司令部での仕事にベストを尽くしました。その彼が原爆投下の際に、『暁部隊』の総員を救援に投じるという決断を自ら下した。私は、組織の論理を越えたところでの人間としてのぎりぎりの発露を見たように思ったのです。そのことは暁部隊、陸軍船舶司令部の歴史を一からたどり、組織に置かれた個として彼らの苦しみを追ったからこそ、初めて見えてきたものだったと感じています」
原爆投下の直後、佐伯の決断がどれだけの命を救ったのかということは、ほとんど知られていない。終戦から現在まで、旧軍に対して批判することはあっても、評価することは避けられてきたからだ。
「言ってみれば、私はこの本を書くことで、そんな佐伯さんや田尻さんの弔いをしたかったのかもしれませんね」
長く続いた取材の過程の中で、忘れ難い光景が堀川さんにはある。それは2020年の1月にガダルカナル島を訪ねたときのことだ。
■戦争を体験した人につながる遺族と取材者との境界線
戦時中、日本の輸送船団が上陸した「タサファロングの浜」からは、透き通った玻璃色の海の波間に、輸送船「鬼怒川丸」の船体の一部が今ものぞいていた。それは陸軍が徴用した輸送船で、多くの民間の船員が軍人とともに亡くなった。このガ島で餓死した一人に長嶋虎吉さんという二等機関士がいた。ちょうど行われていた慰霊祭には彼の遺族として孫が参列していた。
「みんなが浜辺で沖に沈んでいる鬼怒川丸を見て手を合わせていると、お孫さんがスイムスーツに着替えて、海の中へ入っていったんです。お孫さんは必死に泳いで鬼怒川丸の船体に抱き着き、花輪を捧げていました」
その光景を浜から見つめながら、堀川さんは自問したと続ける。
「私はガダルカナルまで来ながら、浜辺で手を合わせるだけで、海に触れようとはしなかった。あの波打ち際は彼らと私の間にある境界線だと感じました。本当に戦争を体験した人につながる遺族と、資料を読むだけで分かった気になっている取材者との境界線です」
■証言ではなく、残された資史料で戦争に向き合うという挑戦
いったいどれほどの数の民間の船員が徴用され、死んでいったのか。正確な記録は存在しない。田尻や佐伯は民間船員に頼った輸送体制を危惧し、彼らを軍属か軍人にするか、あるいは「海技兵」という制度を作って身分を保障することを、参謀本部に再三にわたって要望した。だが、その具申は受け入れられず、国のために死んだ民間人が軍属として扱われ、恩給を支給されるようになるには、戦後の援護法の成立を待たねばならなかった。
「小型舟艇は田尻の作った船舶兵が動かしていましたが、大型の輸送船は最後の最後まで民間人がやっていたわけです。彼らは上陸作戦という戦争の最前線に送られたにもかかわらず、ほとんどの船員は亡くなっても何の補償もされない。陸軍には『兵站の軽視』だけでなく、輸送部隊における軍人と民間人という軽視もあったわけです。
この本を書くうえで、私は船舶司令部の軍人だけでなく、そのさらに下に置かれていた軍属たち、船員たちの苦しみを決して忘れてはならない、と常に思っていました。ガダルカナル島での光景は、その気持ちをあらためて強くするものでした」
堀川さんは広島と原爆をテーマに、『チンチン電車と女学生』(2005年)、『原爆供養塔』(2015年)、『戦禍に生きた演劇人たち』(2017年)という3つのノンフィクション作品を書いている。10年の取材を経た本書は、それに連なるものだろう。堀川さんは「私にとってこの本は一つのテストケースだったという思いがある」と言う。
「私は広島と戦争を描くにあたって、これまではご存命の関係者を探すことに一生懸命になってきました。しかし、76年という歳月が経ち、それは難しくなっています。とりわけ戦争の構造を知る方にお話を聞くのはもう不可能でしょう。当時を知る証言者がいない中で、私たちは戦争にどう向き合えばいいのか。ほぼ資史料のみで書きあげたこの本はノンフィクションの書き手として、そんな一つの挑戦でもあったと思っています」
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ノンフィクション作家
1979年生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『こんな家に住んできた 17人の越境者たち』(文藝春秋)、『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 稲泉 連)
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