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他人の目が気になるから…そのためだけに「外を歩くときにマスクをする」という日本人のイヤな空気

プレジデントオンライン / 2022年4月19日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/monzenmachi

新型コロナへの対応をめぐって、海外と日本の差が広がりつつある。ライター・編集者の中川淳一郎さんは「日本の『コロナ騒動』が収束しない原因は、過度に他人の目を意識し、多数派に合わせて本心を抑え込んでしまう日本人の特質にある」という──。

■コロナ騒動を通じてわかった日本人の2つの行動規範

コロナの混乱が続いたこの2年ほどで、よくわかったことがある。日本人にとって極めて大切な行動規範は「他人に迷惑をかけない」「他人のために自分は我慢をすべき」の2つである、ということだ。

これらは別の言い方をすれば「謙譲の美徳」「利他の精神」といった立派な姿勢になるのかもしれない。だが、2つの規範の根底にあるのはあくまで「そうしないと自分は批判されてしまうし、居心地が悪くなる」という消極的な(そしてある意味、利己的な)感情なのである。

つまり100%納得しているわけではなく、「配慮(という名の自我の封印)をすること」と「批判されたり、居心地の悪さを感じたりすること」を天秤にかけ、どちらがより苦痛かを基準に選択しているにすぎない。

その結果、「配慮をするほうがラクだし、攻撃もされない。余計な波風を立てたくないし……」と判断して2つの規範を守る人が圧倒的多数派となり、社会的な空気は強固なものになっていく。

■コロナ絡みでやり玉に挙げられている少数派3種

社会的な空気の圧は相当なもので、ひとたび流れができてしまうと、強固になった規範はさらに強さを増していくことになる。理由は「他人の目」だ。

自分が少数派になればなるほど他人から向けられる目差しは厳しくなり、多数派は「少数派こそ社会に害悪をもたらす存在」と考えるようになる。

現在、コロナ騒動においてやり玉に挙げられる少数派は、具体的にいうと

(1)COVID-19を「恐怖の殺人ウイルス」と捉えず、あまり恐れない人
(2)マスクをしない人
(3)新型コロナウイルスのワクチンを接種しない人

の3種類である。

以下、上記3タイプの特徴や世間の扱いについて、詳しく見ていこう。

■「恐ろしい病気」は人により異なるもの

(1)の「COVID-19を恐れない人」は、新型コロナが原因で亡くなっている人の数が死者数全体から見て割合的に著しく少ないこと、さらにコロナで亡くなった人の圧倒的多数が高齢者であることをデータから理解し、「このウイルスはそこまでヤバくない」「特定の層(高齢者)ばかりを過剰に守るあまり、全体が不利益を被るのは合理的ではない」と冷静に見極めている。

加えて「恐ろしい病気」であるかどうかは人により捉え方が異なる、という現実も知っている。

私がこれまでの人生でいちばん苦しかったのは、2017年9月に「扁桃周囲膿瘍」にかかったときだ。ヤブ医者に「ただの夏風邪」と診断され、3週ものあいだ、喉を針で刺し続けているかような猛烈な痛みに苦悶させられた。固形物が食べられず、主食はゼリー飲料になって、体重は激減。さすがに「普通の夏風邪のわけがない」と考えて別の病院に行ったところ、扁桃周囲膿瘍であることが明らかになった。喉に注射針を刺し、とんでもなく大量の膿を吸引してもらったところ、ようやく痛みが治まった。医師からは「アンタ、明日までウチに来てなかったら窒息で死んでいた」と言われた。

■コロナ対応をサンクコスト的に捉えている人々

私の知り合いは、痔の一種である「痔瘻」が「生きてきたなかでもっともツラい経験だった」と語っていた。この病気は、肛門の周囲に小さな穴が複数開いてしまい、そこにバイキンが入り込んで激しい痛みに襲われる、というもの。

以前、私はツイッターでこの件を紹介し、「恐怖の対象となる病は人によって違う。だから一律にコロナを“恐怖の殺人ウイルス”と信じなくてはいけない状況はおかしい」といった趣旨の発言をした。すると「痔瘻は他の人に感染しない」などの反論が、コロナを恐怖の殺人ウイルスだと頑なに信じている人々から寄せられた。

ツイッターユーザーのsahoten氏(@sahoten1)は、自身の経験した痔瘻のツラさを次のように述べている。同氏にとっては、痔瘻こそが本当に怖い病気なのである。

〈病院に行くのがもう少し遅れてたら死んでたよと言われた痔瘻で3年間かかりました。座ることもできず、立つか歩くかの姿勢のみ。仕事も腹ばいになってPC操作。ご飯食べるときも立ち食い。手術は9回。苦しい3年間でした……〉

こうした意見に触れても、「人によってキツい病気、恐怖する病気は異なる」という当たり前の感覚が理解できず、「そんなものより、コロナを人にうつすことのほうがヤバいだろ!」「とにかく他人に迷惑をかけちゃいけないんだよ!」と主張するのであれば、それはもはや自分の頭で考えることを放棄した家畜も同然ではないか。

コロナ騒動の初期、政治家や専門家、そしてメディアは「恐怖の殺人ウイルスで人がバタバタ死ぬ」と喧伝した。それに影響され、盲信してしまった人々は「恐怖の殺人ウイルス」という設定を変えられなくなっているのだ。「これまでわれわれは必死に恐れ、自粛し、マスクをして、副反応に耐えながらワクチンを打ってきたというのに、新型コロナ様を恐れないオマエは異常だ! みんなのことを考えない極悪人だ! 日本から出て行け!」と、コロナ対応をサンクコスト的に捉えて、引くに引けなくなっているように見える。

■「マスク真理教」の信者たちはファンタジーを信じ続ける

続いて(2)の「マスクをしない人」についてだが、そもそも日本人のマスク信仰が過剰すぎるのだ。都会の街中を見回してみると、体感値で99.5%はマスクを着用しているのではないか。こうした光景はここ2年ほど、まったく変わっていない。

2020年6月10日、非常事態の期限が切れた後、渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをする人々
写真=iStock.com/Fiers
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Fiers

マスクをしない人間は日々、ツイッター上で猛烈な批判に晒されているが、先日、こんな趣旨のツイートをしているユーザーがいた。

〈まともな知識や常識がある人は「マスクをするのは他人にうつさないため」ということを知っている。対してマスクをしない人間は、禁煙ゾーンでも平然とタバコを吸う人や、大麻解禁論者と同じようなもの。ワガママ過ぎるし自己中心的過ぎる〉

ぜんぜん違う。マスク着用は義務ではないし、法律や条例で規定されているわけでもない。にもかかわらず、マスク推進派のなかにはマスク非着用者を叩くためならば法律違反の行いすらも例として持ち出し、「同罪だ」と極悪人扱いしてくる人が少なくない。

マスクを99%超の人々が着用していても、人口の80%ほどがワクチンを2回接種しても、結局、第6波では史上空前の陽性者数を記録した。しかしながら、マスク推進派は本気で「1%以下のマスク非着用者が感染を広めている」というファンタジーを信じ続けている。「あなたは着けているのだから、それでよいのでは? オレに強要しないでください」と言えば、「あなたと私、2人が着ければより安全になる」と返してくる。これはもう「マスク真理教」である。

■情弱に合わせて良識のレベルを下げる必要はあるのか

マスクをしない人間はこれまで「殺人鬼」「感染しても病院にかかるな」「公衆衛生の敵」「日本から出て行け」「死ね」「異常人格者」「社会の風潮やマナー、店が決めたルールに従えないワガママかつ反社会的な人物」などと散々な言いようで批判され続けてきた。

その根底にあるのは、2020年3月26日に東京都の小池百合子知事が明言した「無症状の若者が高齢者にうつしている」という発言であろう。これが、現在まで続くマスク信仰の流れを形づくる決定打だった。その後、アベノマスクの配布や専門家たちによる啓蒙(洗脳⁉)も追い風となり、マスクは“完璧な防具”として崇められることになる。並行して、マスクを装着しない者を白い目で見る風潮も高まっていった。

とはいえ、その効果について本気で信じている人は、実際のところそこまでいないのでは……とも思うのだ。

人々が必死になってマスクを着け続けているにもかかわらず、陽性者は増えるばかりの状況下、電車や飛行機、商業施設のアナウンスで聞かれるようになったのが、次のようなフレーズだ。

〈他のお客様の安心のために、鼻と口を覆うマスクの着用をよろしくお願いいたします〉

「安心」とは、どういうことだ? マスク着用の目的として「大切な誰かを感染させないため」という建前が真っ先に掲げられていたときは、まぁ「健康」に関する事柄でもあるし、要求される場所では1000歩譲ってマスク着用をやむなく受け入れる気にもなれた。しかし「他のお客様の『安心』のため」というのは、もはや単なる感情論にすぎない。

情報弱者(情弱)の愚かな思考や感情に配慮して、皆で良識のレベルを下げ、バカげた行為に付き合う──そんな状況ではないか。こうなってくると、現在のマスクに関する取り組みは「社会の目」を最大の行動規範とした場合の大衆心理を探る、壮大かつ滑稽な社会実験のようにも映る。

■飲食店の客から浮かび上がってくるマスク事情

飲食店内の現状を観察してみると、ごくまれに「マスク会食(尾身食い)」を励行しているグループを見かけることはあるが、大半のグループは全員がマスクなどせず、大声で喋っている。気をつかっていたとしても、せいぜい顎マスクだ。

しかし、そんな彼らも入店時や便所へ行くとき、退店時にはマスクを装着する。その行為に合理性はないと知りながら、「社会の目」がつくり出したコンセンサスに黙って従ってしまう。それとも、自分たちのいるテーブルにはウイルスを封じ込める結界が張られているとでも思っているのか? はたまた、少しでもテーブルから離れるのであれば無条件に他グループへの配慮が必要だと考えているのか? そこまで周囲への気遣いを意識するのであれば、店員がオーダーを取りに来たときや、料理を運んできたときもマスクを着けるべきだろう。

マスク会食をしているグループにしても、恐らくそのなかでもっとも発言力のある人物、地位の高い人物がマスクを着けているから、それに合わせているだけなのだと思われる。あるいは、職業が公務員であるため、役所に通報が入ることを恐れて外せないのかもしれない。いずれにせよ“忖度マスク”にはなんの合理性もない。

■3回目のワクチン接種はバーゲンセールの様相

最後は(3)「新型コロナウイルスのワクチンを接種しない人」について。ワクチンの2回接種率も80%を超え、現在は3回目を猛烈バーゲンセール中だ。まさに「いいから打て! とにかく打て!」の大合唱である。

内閣府政府広報オンラインのツイッターアカウントは今年4月1日、青山学院大学陸上部監督の原晋氏が登場する、ワクチン3回目接種推奨動画を公開した。現在、同映像はテレビでも放送されている。動画では、箱根駅伝の折にマスク未着用で指導にあたっていた原氏が、神妙な面持ちでマスクを着け、注射を打ってもらっている。原氏のメッセージは以下のとおり。

〈3回目のワクチン接種を迷われている方もいるでしょう。不安がある方もいるでしょう。しかし、自分のため、仲間のためにも、一歩ずつ進まなくては。私も、3回目を打ちました。3回目接種で、安心というタスキを未来へつなぐために〉

実にワケがわからないCMだ。「迷われている方」「不安がある方」に対して、暗に「私(原氏)も3回目を打ったけど問題なかった。つべこべ言わずにさっさと3発目を打て!」と言っているのである。CMとは、どんなに表現がマイルドであろうが、基本的に「買え!」「やれ!」「参加しろ!」と行動を促すことを目的にしている。「買うか、買わないかの判断材料にしてください」なんてCMはあり得ない。原氏は制作サイドのオーダーに従い、求められた役割に徹しているだけであることは重々承知しているが、「私が3回目を打ち、なにも問題が起きなかったことが安全の証拠です。これを判断材料にして、ぜひ3回目接種を受けてください」というメッセージを発する姿は、とても奇妙である。

■著名人に「私も3回目を打ちました」と語らせる目的とは

この動画がメインターゲットにしているのは3回目接種を躊躇している人であり、1回も打っていない人はほぼ対象にしていない。この点については、内閣府も賢明な判断をしたといえよう。これまでワクチンを打ってこなかった少数派は、これからも打ちたいとはまず考えない。今後、薬害などが発生したとしても「だから言っただろ?」で終わりだ。

仮に重篤な後遺症が認められたとしても、国は因果関係を認めないだろう。だが、これまでの経緯を冷静に振り返ってみると「ワクチンは感染予防になる」という設定も嘘だったし、「2回目接種を70%の国民が打てば、感染拡大は収まる」という設定も嘘だった。「子どもや若者にも接種が必要」という説も、彼らが重症化しない時点で粉砕されているし、2回、3回と打った人でも第6波で次々と陽性者になっている現状を鑑みれば、感染防止効果の点においても疑問符がつく。

ワクチン接種を受ける女性
写真=iStock.com/recep-bg
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/recep-bg

それでも政府は「私も打ちました」と著名人に語らせて、情弱に3回目接種を激推ししている。「私も打ちました」というチラシを制作し、ダウンロードすれば自分の写真をチラシに貼り付けることができる、といった取り組みもした。効果はさておき、3回、4回……とワクチンを打たせることが政府の目的になっているのだ。

■日本人の行動規範の裏側にあるもの

ここまでの話を踏まえつつ、以降は冒頭で示した「他人に迷惑をかけない」「他人のために自分は我慢をすべき」という行動規範の裏側に潜んでいる心理を、私なりに読み解いていこうと思う。キーワードは「差別」だ。

少しだけ昔話にお付き合いいただきたい。「昔」といっても、10年ほど前のネット文脈に関する話題である。

2000年代の中盤から2015年あたりまで、ネットでは「在日特権」という言葉が頻繁に用いられていた。これは「在日コリアンは不当に利益を享受しており、フェアではない」という考えがベースになっている言葉で、彼らへの差別がネットで横行するようになった。

確かに、三重県伊賀市において在日コリアンに対する住民税半減といった優遇施策がおこなわれるなど、実例もないわけではない。ただ、ネットで取り沙汰された事柄は荒唐無稽なものも多かった。たとえば「水道代がタダ」「司法試験の一次試験免除」「プロスポーツにおける在日枠の存在」「在日コリアンはパチンコ屋で儲けても税金を支払う必要はない」「マスメディアの採用には在日枠があり、就活で有利」などが挙げられる。

さらにこれが高じて「在日は日本社会を裏で牛耳っており、日本の進む道を決めている」「そうして、韓国に有利なように政治や経済をコントロールしようとしている」といった言説まで登場。また、犯罪者に関する情報がメディアに出ると「日本名だが、こいつは在日」と決めつける、謎の“国籍透視能力”を発揮する人物がネットに出現するのもお約束だった。大規模災害が発生した際には「現地で韓国人の強盗団が暗躍している」といった説もまことしやかに流布された。

■人は弱い。すぐに冷静さを失い、簡単にダマされてしまう

人は弱い生き物だ。自分の願望を叶えてくれる(ように思える)事柄であるとか、信じていたい(信じさせてくれる)事柄、自身の悩みや憤り、ストレスを解消してくれる事柄を見つけたりすると、その真偽を見極める冷静さを失い、簡単にダマされてしまう。

50万人程度しかいない在日コリアンが、1億2000万人を超える日本人をコントロールし、社会を牛耳ることができると、本気で思うのか。冷静に考えればわかるだろうに。

在日批判の本質とは「多くの日本人がツラい日常を過ごしているというのに、ヤツらはおいしい思いばかりしているらしい。許せない」という嫉妬と憤り、怨念であったと、私は捉えている。そして、そこで語られたことの多くは妄想だった。

こうした「ネット右翼(ネトウヨ)」の動きに対して、左派から「出自で差別するのはヘイトスピーチである」と反論があがり、ネトウヨがおこなった路上デモに対するカウンター抗議活動なども発生。法務省もヘイトスピーチを禁止し、現在、ネトウヨの活動はかなり縮小している。

■「なにがあろうと、差別は許されない」という気運

近年「差別は絶対に許されない」という気運が高まり、ネットを含めた公の場における不穏当な発言を認めない風潮も強まっている。

たとえば、杉田水脈衆議院議員の「LGBTは生産性がない」発言は多様性社会に逆行するものとして糾弾された。森喜朗・元五輪組織委会長が発した「女性は話が長い」「わきまえている女性は余計なことを言わない」といった言葉も女性差別だとして問題視され、辞任に至った。その他にも、黒人の権利を守るBLM運動が世界的なムーブメントになるなど、ポリコレの観点から差別主義的な言動は許されなくなっている。身体障害者、被差別部落、肉体労働者、非正規雇用などに対する差別も、もちろん許されるものではない。

小池百合子東京都知事が2016年の都知事選に臨んでいた際、小池氏の対立候補を応援していた石原慎太郎氏から「大年増の厚化粧」と揶揄(やゆ)された。それを受けて、小池氏は「生まれつき顔にアザがあるため、それを隠すために厚化粧をしている」と冷静に説明。世間は石原氏を差別主義者と認定するとともに、小池氏への同情世論が一気に醸成された。そうして選挙は、小池氏の圧勝に終わった。

石原氏にはもともと暴言癖といった嫌われる要素があったにせよ、「生まれもった事柄や変えられない事柄に対して、差別的なことを言うのはポリコレ的に許されない」という風潮は、この時点で完全に社会に定着していたと捉えてよいだろう。その後も「胸の大きいアニメキャラを自治体のキャンペーンに使うのは性的搾取」といった炎上騒動も数多く発生している。

■抑え込まれた差別衝動がコロナ騒動で顔をのぞかせる

しかしながら、人間には「差別をしたい」という根源的な要求があるのだろう。日本であれば被差別部落がまさにそうだし、五人組による相互監視であるとか、第2次世界大戦時の非国民認定なども、差別が公然とおこなわれてきたことを示す歴史的事実である。

戦後もハンセン病やてんかんの患者に対する差別があった。1980年代には「エイズは特殊な性志向を持つゲイ(当時の言い方は「ホモ」)がかかる病気」と世間で白眼視され、ゲイの人々は性的にふしだらで違法薬物の注射器を使いまわしている……といった偏見も根強かった。学校でも「○○菌」などと特定の子を理不尽に差別し、「バリアー!」や「えんがちょ!」などと集団から排除しようとする愚行も当たり前のようにおこなわれていた。

昨今、こうした差別的行為は「なにがあってもやってはいけないこと」と捉えられるようになり、「個人の尊厳は守られなければならない」と皆が肝に銘じるようにもなったと思う。素晴らしいことだ。

だが、新型コロナが流行するようになってから、日本人はまた「差別をしたくてたまらない……」という感情を強くしたように思えてならない。コロナに対して少数意見を述べる者を差別することで自らの優位性を確認し、多数派に身を置くことで「自分は常識人である」と安心するような風潮が強まっていないだろうか。

■コロナ陽性者・マスク非着用者・ワクチン非接種者が差別のターゲット

先に挙げたような差別事案については「生まれついてのもの」「変えることはできないもの」という認識が周知されたこともあり、差別をするための材料にするのが難しくなっている。まぁ、ときどきは「LGBTQはただの性的嗜好」などと無配慮に発言し、炎上する人も出てくるが。

そうして、差別したい気持ちに飢えていた日本人のもとに出現したのが「コロナ陽性者」「マスク非着用者」「ワクチン非接種者」という3属性の人々だ。これら少数派の人々は、あくまで「自己判断」「自己責任」に基づき、そうした境遇を自ら積極的に選択したと世間的に捉えられている。それゆえ「批判されるようなことをしているオマエが悪い」と遠慮なく責められてしまう。

差別に飢えた人々は「ヤツらのコロナに関する属性は、生まれついてのものではないし、変えられないものでもない(陽性者にしても、防ぎようはあったはず)」「つまりヤツらは反社会的な存在であり、ただの自分勝手である。けしからん」と浅薄に思考し、「正義はわれにあり」と自負を強める。だから多数派は、100%の自信をみなぎらせて少数派を一斉攻撃できるのだ。たとえば小説家・医師の知念実希人氏は、マスクをしないでデモをする人々には海外のように放水車で攻撃してもいい、とまでツイートしている。

■幼少期から「他人のために行動する」ことを求められる日本人

思い返してみると、われわれは幼少期から、常に「他人のための行動する」姿勢を求められてきた。学校では、班長やら生徒会役員やらゴミ係やら、望んでもいない役割を押し付けられることがあったし、日々の掃除では率先して雑巾がけすることを要求されたりもした。少しでもサボる生徒がいたら叱責の対象となった。大人になってからも、PTAの役員を押し付けられたりして、本当はイヤなのに「私は専業主婦だから仕方ない」「みんな我慢しているのだから、自分も我慢してやらなきゃ」と受け入れてしまう。会社でも、定時が来たら帰ればいいのに、周囲の目を気にして帰れない。

些末な例でいえば、5人でクルマに乗る際などにも「他人のために行動する」ことが求められたりする。いちばん身体の大きい人がゆったり座れる助手席につくのは合理的であり、わりとすぐに決まることが多い。そして始まるのが、後部座席の下座ともいえる中央席をめぐる自己犠牲合戦だ。

「私が真ん中に行きます!」
「いえいえ、私こそ真ん中に!」
「私、固いシートに座るほうが気持ちいいんです!」

……不毛なこと、このうえない。

酒席や会議、果てはエレベーターに乗る順番までも上座・下座にこだわったりするように、日本人はとにかく自分以外の人間を立てることこそが、人生においてもっとも重視すべき要点なのだ。

コロナの流行により急速に普及したオンライン会議も同様で、24人くらいが参加していても、中心的な役割を担う4人だけがカメラとマイクをオンにしていろいろと意見を言う一方、その他の20人はいずれもオフにして、気配を消していたりする。「私みたいな下っ端が喋ってはいけないのだ」「偉い人たちの会話を邪魔したら、あとで怒られたり、嫌味を言われたりするかもしれない」といった気持ちがあるのだろう。

オンライン会議に出席する女性
写真=iStock.com/recep-bg
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/recep-bg

■日本的な価値観に支配されているからコロナは終わらない

こうした日本的な価値観──「他人の目をなによりも気にかけ、他人に配慮する姿勢を常に周囲に示し続けることが重要」「自分は違和感をおぼえても、甘んじて受け入れる。そうすれば波風は立たない」といった意識に支配されている人間ばかりだから、日本のコロナ騒動は終わらないのだ。

日本よりも甚大な被害を受けた海外諸国がコロナ規制の解除や軽減に続々と向かうなか、岸田文雄首相は慎重姿勢をいまだ崩さない。今夏の参議院選挙に向けて支持率が下がるのを恐れているのだろう。「もうマスクは不要」どころか「その場の状況に応じて、外すかどうかは個々人で判断してもらっても構わない」程度のことすら言わないし、ワクチンの3回目接種は「皆さん、ぜひ打ちましょう」の大号令だ。

4回目接種についても「5月には準備が整う」と見通しを述べている。そうした岸田政権の動きを受けて、この4月にJNN系(TBS)が発表した世論調査では、政権支持率は前月から2ポイント上昇の59.1%を記録。これは、政権が発足した昨年10月とほぼ同水準の数字である。この流れに気をよくしたのか、最近は自民党議員からワクチン5回目接種の必要性を指摘する声も上がっている。

■岸田首相の「聞く力」は「差別主義者の声を聞く力」

恐らく、コロナ対応とウクライナへの支援表明、そしてロシアへの批判姿勢が岸田氏の支持率を上げたのだろうが、円安・物価高はテレビがさほど問題視しないので、そこは批判されない。結局、情弱はテレビを主な情報ソースにしており、テレビがコロナとウクライナのことばかり扱えば、岸田氏が必死に頑張っているように見えるのだろう。

岸田氏は「コロナ対応に関しては当面、ここ2年間の方針をそのまま継続するのが無難だろう。そうすれば、支持率は維持できる」と確信しているのだと思う。だから少数派である「コロナをそれほど恐れてない人々」「マスクを着用しない人々」「ワクチンを打たない人々」を軽視できるし、多数派が少数派のことを「利己的だ」「社会全体のことを考えろ」「人殺し」などと罵倒することにも目をつぶっていられる。岸田氏の「聞く力」は「多数派である差別主義者の声を聞く力」である。

「私は他の人のために配慮ができる、立派な人物である」と信じてやまない人々は、コロナ騒動で久々に訪れた「公然と差別できる正当性」に快感を覚えていることだろう。そして政権は、少数派を叩く人々(つまり多数派)からの支持をなにより重視している。

今後、諸外国がコロナの混乱から脱却し、平穏な日常を過ごせるようになったとしても、日本は変わらずコロナ騒動に明け暮れているに違いない。

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【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」
・コロナ騒動で明らかになったのは、「他人に迷惑をかけない」「他人のために自分は我慢をすべき」という日本人に染みついた2つの行動規範である。
・現在、批判の対象としてやり玉に挙げられているのは「コロナを恐れない人」「マスクをしない人」「ワクチンを接種しない人」という3属性。
・コロナに関して多数派とは異なる意見を持つ人々を、容赦なく攻撃する風潮。その背景にあるのは、人間が隠し持っている醜い差別感情である。そこから脱却できないかぎり、日本のコロナ騒動は終わらない。

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中川 淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
ライター
1973年東京都生まれ。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライターや『TVブロス』編集者などを経て、2006年よりさまざまなネットニュース媒体で編集業務に従事。並行してPRプランナーとしても活躍。2020年8月31日に「セミリタイア」を宣言し、ネットニュース編集およびPRプランニングの第一線から退く。以来、著述を中心にマイペースで活動中。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットは基本、クソメディア』『電通と博報堂は何をしているのか』『恥ずかしい人たち』など多数。

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(ライター 中川 淳一郎)

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