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なぜ武田、北条、今川はダメだったのか…小さな戦国大名・織田信長を「天下人」に導いた3つの要素

プレジデントオンライン / 2022年6月26日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Wako Megumi

織田信長はなぜ「天下人」になれたのか。三重大学教育学部の藤田達生教授は「イエズス会の支援を得て鉄炮玉や硝石を調達できたからだけではない。信長には武田、北条、今川などの諸大名と決定的に異なるポイントがある」という――。

■織田信長はなぜ「天下統一」を目指したのか

なぜ信長が天下統一を志したのかという問題は、実は歴史学界でも正面から取り組んだ研究者はいないほどの大難問である。

織田信長像〈狩野元秀筆〉
織田信長像〈狩野元秀筆〉(図版=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

読者のみなさんは、「戦国大名が覇を競う戦国時代だから、最強の武将信長が天下統一ねらうのはあたりまえだ」と思ってきたのではなかろうか。

しかし、本当にそうであろうか。

高等学校の日本史教科書においては、長らく戦国時代を戦国大名による分権政治の発展と、畿内を中心とする民衆自治の高揚として描き、戦国大名の代表的存在としての信長と一揆の全国的組織たる一向一揆との対決、すなわち権力対民衆の衝突の結果、天下統一が実現したと記述されてきた。しかし、それには少なくとも史実とは異なる二つの問題があった。

第一が、一向一揆の本質を純粋な農民闘争とみてよいのかということである。これについては、現時点では学問的に否定されている。惣村(自治村落)と一向一揆に直接の関係はみいだせないし、組織された門徒には、百姓や町人ばかりではなく歴とした武士も少なくなかった。

また一向一揆が、「仏法領」という宗教的理想領域の創出をめざしたとする研究もあったが、そのような理解そのものが成り立たないことが指摘されて久しい。

■「戦国大名だから当たり前」ではない

第二が、戦国大名ならば必然的に天下統一をめざすという前提であるが、戦国大名の推し進める分権化と、信長がめざした統一すなわち集権化は、まったくベクトルが逆ではないか。

戦国大名の動きの延長上には、数カ国規模の領地のゆるやかな統合と自立しかないのであって、信長はある段階から自覚的にその逆方向の改革を開始したと理解せねば、論理的に成り立たない。

近年における戦国大名研究の進展によって、領国支配の実態の詳細が判明し、在地性深化すなわち分権化を推進したことが明らかになっている。最盛期の戦国大名にあっても、その動きは地域ブロックの覇者をめざすものであり、各領国の自立を志向するものだった。

やはり戦国動乱の末に、必然的に天下統一の方向に向かったのではないのである。なお今年度改訂の高等学校日本史教科書から、如上の天下統一に関する見方は撤回された。

侍のヘルメット
写真=iStock.com/mura
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mura

■「勝てる戦争」を保証した鉄炮、天下統一の原動力に…

権力対民衆の最終決戦の末に天下統一が実現したというのは、見方を変えれば一国史観といってもよい。「日本史」という枠組みによって、私たちはあたかも古代以来、一貫して日本国があるのが前提で、うっかりすると国内事情のみで歴史が展開してきたと考えがちである。

そもそも日本という国号が浸透するのは、中国から律令体制と都城制度を導入した八世紀のことであり、古代・中世では東アジア世界のなかで、そして信長の生きた大航海時代からはヨーロッパも含む地球規模の世界のなかで歴史が紡がれたのであり、古代以来何度か経験した歴史的大転換の本質は、世界的変動への国家的対応だったと筆者はみている。

戦国時代の国内的な歴史の本流は分権化の深化だったのであり、それを統一というまったく逆の方向に舵を切らせたのは、国際的な要因が大きかった。注目されるのが、ヨーロッパやアジアからの新兵器鉄炮の伝播・受容に端を発する戦国日本の「軍事革命」だ。

大量の鉄炮の組織的使用は勝利を約束したが、その反面、莫大な軍事費を必要とした。砲術師・鉄砲鍛冶・武器商人の確保、鉛(玉の素材)や高価な硝石(火薬の原料)の国外からの大量輸入、普段からの鉄砲や大砲の射撃訓練、馬防柵や陣所・要塞の短期普請のための大量の資材確保、これらがセットになって機能して、はじめて「勝てる戦争」を保証にしたのである。

■信長には常に勝ち続ける軍隊が必要だった

天正元年(一五七三)七月に将軍足利義昭を追放した信長は、京都を中心とする畿内政治を担当することになった。

天正三年五月に長篠の戦いに快勝した彼は、同年十一月に常設の武官の最高位である右近衛大将に任官して名実ともに将軍相当者となった。足利という血脈と、伝統と権威に支えられた室町時代とは決定的に異なって、信長は常に勝ち続けねば政権を維持することができないという厳しい現実に直面した。

そのためには、国家的軍隊を編成し「常勝システム」を構築せねばならなかった。信長は、翌天正四年二月からは安土に本城を移し、日本の東西(東山道)と南北(太平洋と日本海を結ぶ近江商人が利用したルート)の流通の結節点を抑えた。

安土城跡の風景
写真=iStock.com/MasaoTaira
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MasaoTaira

■天下統一、信徒拡大…利害が一致した信長とイエズス会

この段階までに、鉄炮鍛冶の拠点である近江国友村(滋賀県長浜市)や和泉堺(大阪府堺市)を押さえ、今井宗久などの堺の国際商人との関係をもち、さらにイエズス会との友好関係も確保したのである。

イエズス会が日本における布教の拠点としたのが国際港湾都市長崎であり、宣教師たちは近隣の大村氏や有馬氏、そして大友氏らキリシタン大名に大砲を供与するなど軍事的に援助しながら、九州の戦国史に大きな影響力もちつつあった。そんな彼らが目をつけたのが、天下人信長だった。

宣教師たちの布教活動を様々に支援するかわりに、イエズス会によってインド→タイ→中国と続くアジアにおける鉛と硝石の道が確保された。かたや信徒の拡大、かたや天下統一という目的のために、互いに利用しあう関係を築いたのである。

これには、デマルカシオン(スペインとポルトガルによる世界分割)という相当に生臭い世界政治の現実が横たわっていたことは、拙著『戦国日本の軍事革命』で詳述した。

■武田、北条、今川ではダメだった…信長だけが「天下人」になれたワケ

鉄砲隊を中心とする国家的軍隊を編成するために、莫大な資本をいかに集中させるのか、この段階の信長にとって最大の課題となった。

信長が注目したのは、検地を介する石高制の導入という一大制度改革だった。

既に北条氏・今川氏・武田氏をはじめとする諸大名は貫高制検地(永楽銭で田畑から年貢を徴収し、あわせて家臣団に対して軍役を賦課するための土地調査)を始めていたのだが、信長は石高制を採用することで、軍事と資本の集中ばかりか国家改造に着手したのだ。

信長の天下統一事業にあっては、天正八年がひとつの画期となった。勅命講和を成功させ大坂本願寺を紀伊雑賀(和歌山市)に退かせて以降、畿内近国において敵対勢力がいなくなったからである。

自らの権威を「天下」を預かる統治者すなわち天下人として上昇させつつ、朝廷とも良好な関係を維持しながら、諸国の戦国大名たちの国郡境目相論に積極的に介入し、停戦令を強制するようになった。

その一方で、信長は服属した地域に対して、一国単位で仕置を強制した。仕置すなわち城割によって抵抗拠点を破却して城郭を整理し、検地によって大名・国人領主の領地を石高で確定しつつ、所替、後には国替を強制しながら、領地と一体になった中世的な領主権を否定していったのである。

城の屋根と壁
写真=iStock.com/Dave Primov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Dave Primov

■中世の常識を打ち破った石高制

信長が貫高ではなく石高制を導入したことは、きわめて重要だ。大名に対して預け置いた石高には、信長に果たす軍役高と本年貢以下の年貢を賦課する権限が含まれていた。

ここまでは貫高検地とさして異ならないが、それに加えて領地・領民・城郭がセットになった新たな統治概念すなわち「領知権」を導入したことが大きい。

戦国時代末期の畿内近国において、荘園制はなんとか余命を保っていたが、名主・百姓の中間得分(加地子(かぢし))や耕作権はもとより、本所や領家がもつ荘園領主権すら年貢徴収権として分割・売買されていた。すなわち、諸権限の物件化と私有財産化が、広く進行・浸透していたから、その所有をめぐって戦乱が絶えなかったのである。

信長、後に秀吉は、戦争をあおり大規模に戦禍を広げながら中世を破壊していった。そのねらいこそ、検地を通じて戦国大名の領地を収公して国土領有権として統合し、天下人が麾下の大名に対して、その実力や期待値から判断した領知権を石高という数値で表示して預け置くことにあった。

大名が預けられた数万石から数十万石といった石高には、軍役高や年貢賦課権のみならず、そこで暮らす町人や百姓と彼らが暮らす町や村、そしてなによりも城郭が必ず含まれていたことこそ重要なのである。これが、戦国大名の貫高制検地との大きな違いだ。

領地・領民・城郭を一括することで、まったく新たな統治システムが創出されたのである。信長版DXとでもよぶべきであろうか。これら領知の対象を一括して石高として数値化して表現したところが革命的だった。

しかも、それらはすべて天下人が大名に預けたものであり、中世のような私有の対象ではなかった。これによってはじめて大名の国替が可能になり、同時に百姓は移動が許されず耕作に専念することになった。なによりも、領地をめぐる戦争がありえなくなったことに着目するべきである。

なお、このように高く評価すると、実態としての立ち遅れにもとづく反論が予想される。ここでは、信長が打ち出し秀吉が継承した支配理念に絞って指摘したことをお断りしたい。

■軍事パレードで示された「信長の常備軍」の力量

ここで注目したいのが、天正九年におこなわれた信長の軍事パレード「馬揃(うまぞろえ)」である。

京都(二月と三月)と安土(八月)で合計三回もおこなっており、二月のそれには例外もあるが(たとえば鳥取城攻撃を控えた羽柴秀吉・秀長兄弟は除く)、基本的に全領規模で家臣団が信長からの動員を受け、それに従っている。

初回の京都馬揃は、天正九年二月二十八日におこなわれた。『信長公記』によれば、次表のように織田全軍が編成されており、明らかに信長を中心とする新たな大規模で華麗な陣立を、広く天下に示すものであったことがうかがわれる。なお、何騎としか書かれていない大名クラスの武将にも、当然のことながら相当数の家臣団が伴われていたであろう。

ちょうどこの時期には、織田家の全領規模で検地を通じて大名・国人領主の石高で表示された知行高と知行地が決定されつつあり、それに応じた軍役が決定され、動員されたとみられる。

京都馬揃の陣立(天正9年2月)

正親町(おおぎまち)天皇臨席の一大イベントとして全領規模で大名以下の諸領主に馬揃を強制することによって、石高にもとづく軍役を果たす近世軍隊への変化を促進したのである。中世においては、戦争の際にしか軍隊は成立しなかった。

この馬揃においては、戦時でないにもかかわらず、天下人の命令で軍隊が機能したのであり、画期的なことだった。突如、信長の常備軍の中核部隊が洛中に姿を現したのである。

■鉄炮、イエズス会、そして石高制…戦国の最強軍団を生んだ三大要素

あわせて重要なのは、日本を訪問していたイエズス会巡察使(イエズス会の最高位聖職者)ヴァリニャーノを招待していたことである。

藤田達生『戦国日本の軍事革命』(中公新書)
藤田達生『戦国日本の軍事革命』(中公新書)

信長は、ヴァリニャーノから贈られた濃紺色のビロードに金の装飾を施した椅子に腰掛けて閲兵した。諸国から二十万人近い群衆が集まったと言われる絢爛豪華な軍事パレードを、ヨーロッパへの帰途に就く直前の巡察使に見せておきたかったのだろう。

信長の関心は、国内的には大規模な常備軍の威容を天皇以下に広く示し、国外的にはヴァリニャーノを介してローマ教皇グレゴリウス一三世に、「自らを事実上の頂点とする軍事国家日本ここにあり!」とのメッセージを伝えることにあったとみられる。

石高制の導入によって誕生した常備軍が、以後、本格的に天下統一戦の原動力になっていった。

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藤田 達生(ふじた・たつお)
三重大学教育学部教授
1958年(昭和33年)、愛媛県に生まれる。1987年、神戸大学大学院博士課程修了、学術博士。同年、神戸大学大学院助手。1993年、三重大学教育学部助教授。2003年、同教授。2015年、三重大学大学院地域イノベーション学研究科教授兼任。専攻は日本近世国家成立史の研究。著書『天下統一論』(塙書房)、『戦国日本の軍事革命』(中公新書)など多数。

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(三重大学教育学部教授 藤田 達生)

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