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学校の勉強はあんなにつまらなかったのに…定年後にどんどん勉強にハマる人が多い本当の理由

プレジデントオンライン / 2023年8月11日 8時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

定年退職で仕事をする必要がなくなった人はどんな生活を送ればいいのか。心理学博士の榎本博明さんは「時間がたっぷりあって退屈だからこそ、興味の向くままに動いてみるといい。暇つぶしに勉強してみると、学生時代と違って純粋な学びの楽しさを味わえるだろう」という――。

※本稿は、榎本博明『60歳からめきめき元気になる人』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■「退職後は退屈で苦痛」は本当なのか

退職後はやることがなく暇になるだろうと、暇になることを恐れる定年前の人たちが少なくないようだが、暇の効用に目を向けることが大切だ。忙しい働き盛りの頃は「暇がほしい」と切実に思うこともあったのではないか。

ようやく暇になるのだから、勤勉な自分のイメージは脱ぎ捨てて、後ろめたさなしに堂々と暇を楽しめばよい。

暇すぎると当然ながら退屈になる。退屈するのは苦痛かもしれないが、忙しい日々を長らく経験してきたのだから、一度極度の退屈を経験するのもよいかもしれない。

私たちは、普段から外的刺激に反応するスタイルに馴染みすぎているのではないだろうか。スマートフォンやパソコンを媒介とした刺激を遮断されると、すぐに手持ち無沙汰になる。でも、情報過多によるストレスやSNS疲れを感じている人も多いうえに、何よりも考える時間が奪われている。

■ボーっとする時間は貴重な時間だった

スマートフォンがなかった時代には、電車の中では本や新聞を読む一部の人以外は何もすることがなく、どうにも手持ち無沙汰なものだった。考えごとをするか、ひたすらボーッとして過ごすしかなかった。

とくに思索に耽るタイプでなくても、そうしていると気になることがフッと浮かんできて、あれこれ思いめぐらせたものだった。過去の懐かしい出来事や悔やまれる出来事を思い出し、そのときの気持ちを反芻することもあっただろう。今の生活に物足りなさを感じ、いつまでこんな生活が続くのだろうと思ったり、これからはこんなふうにしようと心に誓ったり、この先のことを考えて不安になったりすることもあっただろうし、ワクワクすることもあっただろう。

何もすることがない退屈な時間は、想像力が飛翔したり、思考が熟成したりする貴重な時間でもあったのだ。

■受け身な生活から主体的で創造的な生活へ

退屈について考察している西洋古典学者のトゥーヒーは、つぎのような示唆に富む指摘をしている。

「退屈は、知的な面で陳腐になってしまった視点や概念への不満を育てるものであるから、創造性を促進するものでもある。受容されているものを疑問に付し、変化を求めるよう、思想家や芸術家を駆り立てるのだ。」(トゥーヒー著 篠儀直子訳『退屈 息もつかせぬその歴史』青土社)

近頃は、退屈しないように、あらゆる刺激が充満する環境が与えられているが、それでは人々の心はますます受け身になってしまう。自分の思うように動くため、ときに危なっかしくも見えてしまう幼児期のような自発的な動きを取り戻すために、あえて刺激を断ち、退屈で仕方がないといった状況に身を置いてみるのもよいだろう。

そんな状況にどっぷり浸かることで、自分自身の内側から何かが込み上げてくるようになる。それが、与えられた刺激に反応するといった受け身な生活から、主体的で創造的な生活へと転換するきっかけを与えてくれるはずだ。

■まずやってみて、向いてなければやめる

やるべきことが詰まっている時間には、想像力が入り込む余地がなく、創造的な生活を生み出すことがしにくい。何もすることがないからこそ、その空白の時間を埋めるべく想像力が働き出し、創造的な生活への歩みが始まるのである。

何か気になるものがあっても、「これはほんとうに自分に向いてるだろうか?」「自分にもうまくできるだろうか?」「続くだろうか?」などと考えて、結局、躊躇してしまうといったことになりがちだ。

だが、職選びではなく趣味や遊びなのだから、そんなに慎重になる必要はないだろう。やってみて自分に向いていないと思えばやめればいい。べつに続かないとダメというわけではない。興味のままに動けばいい。

■スポーツ、演劇、落語、歴史、美術、何でもいい

スポーツ観戦が好きで、よく休日にテレビで見ていたなら、もう翌週のために体力を温存する必要はないのだから、実際に競技場に出かけて生観戦を楽しむのもよいだろう。

演劇が好きで、深夜によくテレビで見ていたなら、やはり実際に劇場に出かけて生で楽しんでみるのもよいだろう。

落語にしても、歌舞伎や能・狂言など伝統芸能にしても、コンサートにしても、よくテレビで見て楽しんでいた人に限らず、ちょっとでも気になるのであれば、どんなものか試してみようという感じで出かけてみればいい。

日本の歴史についてのテレビ番組を見て、特定の戦国武将やどこかの時代に興味が湧いたら、時間はたっぷりあるのだから、図書館に通って調べてみればいい。

美術についてのテレビ番組を楽しみに見ており、何かで絵画の実践講座のパンフレットが気になったら、絵なんて学校の授業でしか描いてないけれど大丈夫かなとか、続くかなとか考えずに、とりあえず興味のままに飛びつけばいい。

絵を描く高齢女性
写真=iStock.com/FreshSplash
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/FreshSplash

■「哲学というのは限界を知らざる好奇心」

数学者広中平祐との対談において、哲学者梅原猛は、好奇心をもつことの大切さを指摘している。

「今の哲学の研究者たちは、カントの哲学、ヘーゲルの哲学についての研究をしているんで、哲学そのものをやっていない。哲学についての哲学が今のアカデミズムの主流です。

私はもうそんな窮屈なこと考えないで、哲学というのは無限な好奇心だと思う。限界を知らざる好奇心。プラトンの言うエロスというのは、面白いことがあるとどこへでもくぐっていくことなんです。これは自然科学でも人文科学でも、歴史でも文学でもいい。そういう具体的なものとの関わりなしに、エロスはあり得ないのでね。エロスは必ずそういうところに溢れてくるんです。」(広中平祐著『私の生き方論』潮文庫)

もう組織とか職務による縛りはないし、暇はいくらでもあるのだから、好奇心に任せて気になることを試してみればいい。

■なぜ学校の勉強はあまり面白くないのか

勉強するということに対してアレルギー反応を示す人が少なくない。それは学校の勉強があまり面白くなかったからかもしれないが、職業生活を通じて仕事に必要なことをたくさん学んできたはずだし、今なら勉強を楽しめるのではないか。

なぜ学校の勉強があまり面白くなかったのか。それは手段としての勉強だったからだ。良い成績を取るための勉強、受験を突破するための勉強の場合は、結果がすべてであり、点数ばかりを意識して勉強することになる。

そうなると、「ここは重要だから試験に出そうだ」という箇所を中心に学ぶことになり、「ここは面白そうだから詳しく調べてみよう」といった学び方は許されない。そんな学び方をしていたら成果につながらない。だから学校の勉強は面白くなかったのだ。

■報酬が発生すると「ただの手段」になってしまう

これに関しては、興味深い実験がある。

心理学者のデシは、面白いパズルをたくさん用意して、パズルの好きな大学生に自由に解かせるという3日間にわたる実験を行った。

その際、A・Bの2グループが設定された。1日目は、両グループともただ好奇心のおもむくままにいろんなパズルを解く。だが、2日目は、Aグループのみ、パズルが1つ解けるたびに金銭報酬が与えられた。Bグループは、前日同様ただ解いて楽しむだけだった。そして3日目は、両グループとも1日目と同じく、ただ好奇心のままに解いて楽しむだけだった。

つまり、Bグループに割り当てられた人は、3日間とも好奇心のおもむくままにパズルを解いて楽しんだわけだが、Aグループに割り当てられた人は、2日目のみパズルが解けるたびにお金をもらえるという経験をしたのである。

3日間とも、合間に休憩時間を取り、その間は何をしていてもよいと告げて、実験者は席を外した。実は、この自由時間に自発的にパズルを解き続けるかどうかを調べることが、この実験の目的なのであった。

その結果、Aグループにおいてのみ、3日目にパズル解きへの意欲の低下がみられた。

元々はみんなパズルが好きで、パズルを解くこと自体を目的として楽しんでいた。ところが、パズルを解けたらお金をもらえるという経験をすることによって、パズルを解くのはお金をもらうための手段となってしまったのだ。

■点数や成績のための勉強は当然楽しくない

こうしてパズルを解くことは、金銭報酬をもらうことによって、内発的に動機づけられた行動から外発的に動機づけられた行動へと変質したと考えられる。その証拠に、お金がもらえないときには自発的にパズルを解くことが少なくなったのである。これは、外的報酬がないためにモチベーションが低下したことを意味する。

かみ砕いて言えば、パズルを解くことそのものが目的だったときはパズルを楽しめたのに、報酬をもらうためにパズルを解くようになると、パズル解きは報酬をもらうという目的のための単なる手段となってしまい、パズル解きそのものを楽しめなくなったのである。

これで学校の勉強をあまり楽しめなかった理由がわかったと思う。点数や成績という報酬を得るための手段として学んでいたから、あまり楽しくなかったのだ。

■暇つぶしとしての勉強がもっとも純粋で楽しい

若い頃はつまらなかった勉強が、定年退職後に改めて取り組んでみると面白くなったという人がいるのは、もう成果にこだわる必要がなく、学ぶこと自体を楽しめるからだ。わからないことがわかるようになる。知らなかったことを知ることができる。それはワクワクすることのはずだ。

榎本博明『60歳からめきめき元気になる人』(朝日新書)
榎本博明『60歳からめきめき元気になる人』(朝日新書)

学校時代に歴史の勉強が好きでもなかった人が定年退職後に戦国時代の歴史や郷土史の勉強を楽しんでいたり、国語の勉強が苦手だった人が定年退職後に古典文学にはまったりしているのも、成績と関係ない純粋な学びになっているからである。

生産性や効率を重視する世界から解放されたのだから、何かに役立てるための手段としての勉強ではなく、実用的価値のない遊びとしての勉強をしてみれば、ワクワク感を楽しみながら心の世界をどこまでも広げていけるだろう。

ここでわかるのは、暇つぶしとしての勉強が最も純粋な学びであり、最も楽しい学びだということである。暇つぶしとして気になることをいろいろ調べながら学んでいくと、意外に面白いテーマが見つかり、楽しい学びになっていくはずである。

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榎本 博明(えのもと・ ひろあき)
心理学博士
1955年東京生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。東芝市場調査課勤務の後、東京都立大学大学院心理学専攻博士課程中退。カリフォルニア大学客員研究員、大阪大学大学院助教授などを経て、現在、MP人間科学研究所代表、産業能率大学兼任講師。おもな著書に『〈ほんとうの自分〉のつくり方』(講談社現代新書)、『「やりたい仕事」病』(日経プレミアシリーズ)、『「おもてなし」という残酷社会』『自己実現という罠』『教育現場は困ってる』『思考停止という病理』(以上、平凡社新書)など著書多数。

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(心理学博士 榎本 博明)

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