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ドラマ「大奥」は研究者が驚く歴史改変ぶり…史実では将軍家治の子を先に産んだのは御台所・倫子だった

プレジデントオンライン / 2024年3月1日 8時15分

筆者作成

10代将軍徳川家治の時代を描くドラマ「大奥」(フジテレビ系)。家治の最初の子を産んだのは側室で、御台所の倫子と松平定信は幼なじみという設定だが、『徳川家臣団の系図』などの著書がある研究者の菊地浩之さんは「史実では倫子は夫の家治が将軍になる前、側室をもうける前に第1子を産んでいる。また、松平定信は倫子の第1子より後に生まれ、20歳も下だ」という――。

■ドラマでは側室のお知保が先に出産しているが…

ドラマ「大奥」(フジテレビ系)が佳境を迎えている。

主人公は10代将軍・徳川家治(いえはる)(亀梨和也)の正室、五十宮倫子(いそのみやともこ)(小芝風花)。側室・お知保の方(森川葵)に嫡男・竹千代が生まれるが、倫子には一向に妊娠の兆しが見えなかった。嫉妬と焦燥感に悩ませられる倫子。

一方、家治の従兄弟で、倫子の幼なじみの松平定信(宮舘涼太)は、父・田安徳川宗武(むねたけ)(陣内孝則)の遺命で家治一家の根絶やしを企み、倫子の不妊は定信の手によるものだった――とまぁ、こんな感じだ。

ただ、ちょっと、というかかなり事実関係が異なっているので、家治一家の年表を作ってみた。やっぱり順番が全然違う。

倫子は家治が将軍になる前にすでに長女を出産していた。家治が将軍に就任した翌年に生まれた子も女児だったので、周囲が側室を勧め、その翌年にお知保の方が嫡男・竹千代を出産。その2カ月後に側室・お品の方(西野七瀬)に次男の貞次郎が生まれている。

■松平定信は倫子の長女より年下で、恋愛相手にはなり得ない

つまり、倫子の方がお知保の方より先に家治の子を産んでいたのだ。な~んだ、焦ることないじゃん。それより、あと2カ月でお品の方が出産しなければならない。こりゃあ、大急ぎで妊娠させないと間に合わないぞ。

2カ月といえば、松平定信の父・田安徳川宗武が死んでから2カ月後に、主人公・倫子が死んでしまう。大急ぎで2人出産しないと間に合わない。それというのも、定信の謀略があったからだ。……定信って、倫子の長女より2歳年下なんだね。調べてみたら、倫子の20歳年下なんだ。たしかに、倫子はキミのこと、幼い頃から知っていたと思うけど、それは「幼なじみ」っていう関係じゃないんだよ。

■8代将軍吉宗はあえて不美人を側室にし、田安宗武が生まれた

定信の父・田安徳川宗武は、8代将軍・徳川吉宗の次男として生まれた。

長男の徳川家重が3歳の時、母親が難産の末に死去してしまう。そこで、吉宗に新しい側室を迎えることになる。

「家来が吉宗に希望を聞くと、亡くなった長福丸(ながとみまる)(家重)の母親に縁のある女性にしたいという。見つかるには見つかったが、『徳川実記』に『その形よからず。枕席(ちんせき)に侍すべきさまにもあらず』とあるような醜女(しこめ)だった。
しかし吉宗は家来に向かって、『女はやきもちさえ焼かなければそれでいいのだ。顔などどうでもいいのだ』といって、彼女を側室にしてしまうのである。これが、後に吉宗の再来といわれ、御三卿(ごさんきょう)の一つを興すことになる田安宗武の母親である」
(大石慎三郎『将軍と側用人の政治』)。

家重は言語不明瞭で、将軍としての資質を疑われる側面があった。一方の宗武は和歌に通じ、非常に英邁だったので、老中・松平乗邑(のりさと)などの幕閣が宗武の将軍就任を支持。吉宗も逡巡したらしいが、結局、「長幼の序」を守るべきと判断して家重を後継者とし、乗邑を罷免した。

宗武は江戸城田安門の近くに邸宅を与えられ、御三卿の一角を成した。家禄は10万石だが、特定の地域をまとめて与えられたわけではなく(たとえば、田安家の場合は武蔵・下総・甲斐・摂津など6カ国合計で10万石)、家臣は旗本の出向組だった。なんだか中途半端で、いつでも事業撤退(廃止)できるプロジェクトに見える。

■田安家から養子に出されたことを深く恨んでいた松平定信

宗武の嫡男・徳川治察(はるあき)は病弱で子もなかったので、田安家としては後継者のスペアとして、英邁な七男の定信を取っておきたかった。ところが、幕府は定信を白河藩松平家の養子に出すように命じる。半年後に治察が死去すると、宗武の未亡人は定信を田安家に戻して家名を存続するよう嘆願したが拒否されてしまう。

幕府の役人曰(いわ)く、吉宗の遺命によれば、
「御三家の領知は部屋住み料として与え、無嗣であれば収公(家禄を没収)するとあるため、願いは却下する」(高澤憲治『人物叢書 松平定信』)。

やっぱり、吉宗は御三卿をいつでも事業撤退できるプロジェクトと考えていたのだ。だから、御三卿の男児はポンポンと他家の養子に出されてしまったわけだ。ところが、定信は自身が養子に出されたのは、田沼意次の謀略だと信じ込んでいて、「田沼憎し」の怨念で凝り固まっていたらしい。二度ほど、田沼を殿中で刺し殺そうと考えていたと吐露している。

「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月
「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

■家康の幼名である「竹千代」が意味すること

さて、引用文でサラっと流したが、9代将軍・家重の幼名は長福丸である。竹千代ではない。家重が生まれた時、父・吉宗は紀伊徳川家の当主だった。徳川将軍家の嫡男が竹千代と命名されるのに対し、紀伊徳川家では嫡男を長福丸と命名するのがスタンダードなのだ。実は、長福丸というのは家康の異父弟・松平定勝(さだかつ)の幼名で、定勝のことを気に入った家康が、紀伊徳川家の家祖・徳川頼宣(よりのぶ)に定勝の幼名をもらったのだという。ちなみに、定勝の子孫の家に婿養子に入ったのが松平定信だ。

さて、本家の「竹千代」は、初代将軍・徳川家康の幼名だ。実は家康の祖父・清康(きよやす)の幼名が竹千代で、家康の父・広忠(ひろただ)が祖父にあやかって命名した。広忠自身は東に今川、西に織田という強豪に挟まれて難渋した人生を送ったが、祖父・清康は一国衆から三河を統一したという英雄である。「おじいちゃんみたいに強くなるんだゾ」という願いを込めて命名されたのだろう。

以来、徳川将軍家では、長男を竹千代と命名することにしている。

ドラマ「大奥」では、お知保の方が産んだ男子が竹千代と名付けられ、倫子や幕閣たちがざわめいたのも、実質、跡継ぎだと決まったということを察したからだろう。

石垣、堀、松の木に囲まれた皇居
写真=iStock.com/Gargolas
大奥があった江戸城跡(現在の皇居) ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Gargolas

■10代将軍家治も竹千代だったが、早逝した嫡男も多い

歴代将軍の子どもの竹千代(もしくはそれに準ずる)一覧をつくってみたが、なるほど長男(もしくは事実上の長男)はだいたい竹千代と命名されている。母親が正室か側室かはあまりこだわっていないようだ。そもそも3代将軍・家光以降、正室の生んだ男子が家督を継ぐという前例がないため、とりあえず長男が生まれたら「竹千代」にしておこう――という慣例があったのかもしれない(家光は正室の子ではないという説もある)。

【図表】歴代将軍の子どもの竹千代一覧
筆者作成

だから、倫子はそんなにショックを受ける必要はないんだよ~、と言っておこう。

さて、話は飛んでしまったが、その後の田安家はどうなったのか。実は11代将軍・家斉の実弟が養子に入って再興されたのである。

一昔前までは、家治の嫡男の不審死や家斉の将軍就任はみんな田沼意次が暗躍したと噂されていたが、家斉の父・一橋徳川治済(はるさだ)が稀代の謀略家で、近年では「治済が仕組んだんじゃないか」説が有力になっている。一説によれば、松平定信は老中になるべく、治済の歓心を買うために五男の斉匡(なりまさ)を田安家の養子に迎え入れたのだという。

兄の家斉が53人(一説には55人)もの子どもをもうけたことで有名だが、弟の斉匡も10男19女、計29人もの子どもをもうけた。しかも、子孫はなかなか優秀で、斉匡の八男が越前藩主・松平慶永(よしなが)(号・春嶽(しゅんがく))、慶永の弟の子が16代宗家当主の徳川家達(いえさと)と、本家を上回る繁栄ぶりを謳歌した。

■「性行為は楽しくない」と書いた松平定信だが子孫は繁栄

一方の松平定信だが、本人の申告によれば、性欲に乏しく、性行為自体に興味がなかった――らしい。曰く。「房事なども子孫ふやさんとおもへばこそ行ふ。かならずその情慾にたへがたきなどの事はおぼえ侍らず。そのうへ平日これぞうれしきこれぞたのしきとおもふ事はなし」(かなり意訳すると「性行為は子孫繁栄のためだけに行っている。性欲が高まって抑えきれないということもないし、快楽を覚えたこともない」)と述懐している。

【図表】徳川宗家と松平定信の子孫たち
筆者作成

従兄弟の家治もそっち方面では淡泊で、跡継ぎが生まれると側室のもとにパタッと通わなくなったというから、これは遺伝なのかもしれない。

不承不承だったのか、性行為に励んだおかげで、松平定信は2男6女に恵まれた。あの真田家に養子に行った次男・真田幸貫(ゆきつら)は外様大名ながら父の威名で老中に登用され、孫の板倉勝静(かつきよ)、諏訪忠誠(すわただまさ)、内藤信思(のぶこと)も老中。松平近説(ちかよし)、土岐頼之(ときよりゆき)は若年寄と、まぁそろって出世しているのだ。

この人が祖父・吉宗くらいとは言わないまでも、せめて従兄弟の一橋徳川治済くらいの謀略家だったら、将軍になれたのかもしれないが、子孫が幕閣で栄達しているのを見るにつけ、かえって将軍にならなかった方がよかったのかもしれない。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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