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「お母さん、ごめんなさい! ゆるして!」毛布をかぶせられ呼吸を奪われる虐待を受けても母の愛が欲しかった

プレジデントオンライン / 2024年2月29日 7時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hreni

肉体的、精神的ネグレクトなど、ありとあらゆる虐待を母親から受けてきたノンフィクション作家の菅野久美子氏。憎しみと同時に愛してもいた母との相克の始まりは、4歳の頃だった。幼稚園から帰宅すると、それまで先生やママ友に見せていた母の満面の笑みは、たちまち鬼のような形相に変化していく。「今日は虐待が起こる日だ」というオーラを母から嗅ぎ取り、恐怖心でブルブルと震えたという――。

※本稿は、菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■母との「相克の始まり」

いつだって人には、出会いと別れがある。別れがあるのは、恋人や友人だけではない。

自分を生んだ母とも、いつか別れがくる。それは必ずしも、死別という一般的にイメージされやすいものだけではない。

恋人や親友との別れのように、自分で別れを「選択」することだってできる。私は数年前、自ら母を捨て、そして、母と別れた。自分を生み落とした母を捨てることは人生でもっともつらく、身を引き裂かれるような決断であったと思う。

それでも、今の私が自信を持って言えることがある。親との関係がどうしようもなく苦しければ、恋人にさよならを言うように離れてもいいし、捨ててもいいということだ。

まずは、そんな母との衝撃的な「相克の始まり」から振り返ってみたい。

■晴れた日の午後、父の仕事部屋で

私が物心ついたとき、それははじめて自分の体と心を認識したときだった。母の胎内から出てきて、まだたった4年ほどしか経っていない、幼稚園児の頃である。私と母との関係は、ここからはじまった。私の一番古い記憶だ。

今も頭に焼きついて離れないのは、西側の窓からサンサンとさし込む太陽の光だ。それは、まばゆいばかりの光で、私と母をいつだって照らしていた。

母と一緒に幼稚園から自宅に帰った私は、黄色の斜めがけバッグを下ろし、紺のベレー帽を脱ぐ。すると、先生やお友だちに見せていた母の満面の笑みが、たちまち鬼のような形相に変化していくのであった。その途端、私の全身が恐怖ですくむ。

「こっちにきなさい!」

母は、私の小さな腕をつかんで、強引に廊下の奥にある部屋に引きずっていく。

そこは六畳一間の父の仕事部屋だった。窓は完全に閉め切られている。それでもカーテンはいつも開いていて、畳は一部だけすすけて黄金色に日焼けしていた。かすかだが、父のつんとした整髪料の匂いが鼻をつく。

部屋の左側には、こたつと座椅子があって、その上にはピンクや黄色など色とりどりの蛍光ペンや色鉛筆、書類が無造作に並んでいた。小学校の教師である父はよく、休日や夕食後はこの部屋にこもっていた。そして、机の上のペンを手に取り、テストの採点や添削に没頭していた。当然ながら平日の昼間にそんな父の姿はない。

母の虐待は、晴れた日の午後で、場所は父の仕事部屋と決まっていた。虐待の理由は、「忘れ物をしたから」「服を汚したから」などだった気がする。しかし、今思うとそれはこじつけに過ぎなかったと思う。

帰宅するなり、私は母から「今日は虐待が起こる日だ」というオーラを嗅ぎ取り、恐怖心でブルブルと震えた。要するに、母の機嫌がすこぶる悪い日というわけだ。朝は笑顔で幼稚園に送り出しても、帰宅すると別の顔を見せることもあった。だから、母の虐待はすべてが予測不能だった。

■巨大な怪物のようにのしかかってくる濡れた毛布

部屋は鮮やかな光に包まれていた。まだ光が見えているうちは、希望があった。ささやかな希望が――。

目を覆われていないうちは、まだ「苦しくない」。まだ、「大丈夫」。あの「苦しい」時間を、一分一秒でも先延ばしにできる。

小さな私の心は、そうして必死に私自身を勇気づけていた。母に激しく罵倒され、次に起こることにおびえながら、それでも私は、「あの光」を追わずにはいられなかった。なぜなら、あれは私に残された最後の安心だったから。

母が押し入れを開け放ち、ポリエステルの毛布を乱暴に取り出す。ドサッという音。毛布の細かな繊維質が、何百、いや何千と、ふわふわと空中を飛び交っているのが目に入る。白と黄色が混じり合った西日に照らされて、それはあまりに美しく、自由に浮遊していた。

次の瞬間、私の視界は、漆黒の闇に覆われる。父の書斎の道具が残像となり、突然かたちを失っていく。これまで部屋中にさしていた光が失われる。目の前は真っ暗で何も見えない闇の世界へと反転する。

それと同時に、私の中にあった最後の希望はプツリと消える。母が私にかぶせた毛布の上から首を絞めつけてきたからだ。同時に息ができなくなる。顔中を覆うモコモコした毛布が、口に入ってきて吐きそうになる。

「くるしい、いきができないよ!」
「お母さん、ごめんなさい! ごめんなさい! だからゆるして!」

私は、毛布の下で叫ぶ。絶叫する。しかしいくら泣いても暴れても、誰にも届かない。届いたところで、この力がゆるまないのは、これまでの経験から痛いほどによくわかっている。その声は厚い毛布に阻(はば)まれ、母の暴力の前で4歳児である私は、あまりに非力すぎた。

だから私に今できるのは、小さな口と鼻で、必死に息継ぎをすることだけだ。ただただ、呼吸を浅くすることだけ。

「ハーハー、ハーハー」

息苦しさのあまり、ボロボロと涙と鼻水が出てくる。涙の粒は顔面を伝って、毛布を濡らす。毛布は流れ出た水分を含み、さらに呼吸を苦しくする。涙を吸い込み、ベチョベチョに濡れた毛布は、巨大な怪物のように私にのしかかってくる。

■「あんたなんか、生まなきゃよかった」

まだこの世に生を受けてたった4年――。か弱い4歳児の私は、母の強大な力を前に、なすすべがない。母の強大な力に、ただただ翻弄されるしかない。

「お母さん、たすけて!」

苦しさのあまり、毛布の隙間から声を上げると、「ゲホゲホゲホゲホ」と嗚咽し、咳(せき)込んでしまう。どうやら、毛布の繊維を喉の奥に深く吸い込んでしまったようだ。

いつしか意識が遠のき、呼吸がゼーゼーと浅くなる。酸素と二酸化炭素の交換がうまくいかなくなってくる。それでも私の小さな肺はギリギリのところで、耐えようとする。生きようとする。血管から血管へと流れる酸素を循環できない、断末魔の苦しみ。

私の首を絞めつける母の巨大な手は、その圧をじわじわと増し、ギリギリのところまで私を絞め上げる。そうして小さな私の呼吸を、極限まで追い込んでいく。

「お母さん、くるしいよ。おねがい、もうやめて! ごめんなさい、ごめんなさい」
「あんたなんか、生まなきゃよかった」

母の吐き捨てるような言葉が、毛布越しに私の耳にも聞こえた。だけど、だからといって、どうすればいいのかわからなかった。

■母が呼吸を奪う虐待を繰り返した理由

母は、私にありとあらゆる虐待をしてきたが、こうして私の呼吸を奪うことが多かった。そして、私にとって一番の恐怖は、お尻を叩かれることでも、ビンタされることでもなかった。そんなことは、一瞬の痛みに過ぎない。

一番の恐怖は、こうやって呼吸をじわじわと、いつ奪われるかもしれないことなのだ。母が、呼吸を奪う虐待を頻繁に繰り返した理由――。それは、今考えてみれば、母が近隣住民に知れ渡ることを、何よりも恐れたからだろう。

当時私たち一家は、福島県郡山市の古い借家に住んでいた。よくある普通の地方都市だ。私が生まれた1980年代は、今ほど児童への虐待が認知されていなかった時代である。

とはいえ、近隣関係は今ほど希薄ではなかった。案の定、お隣との距離も近く、隣には心の優しい親切な年配の夫婦が二人で住んでいた。母は、よくこの隣人の奥さんにおすそ分けをもらうような仲だったし、町内会も顔の見える関係で機能していた。

だから私が泣き叫べば、誰かが駆けつけたり、噂されたりする。それを、母は何よりも恐れたのだろう。

周囲に声を聞かれてはいけないし、何よりも母の行為は誰にも知られてはいけないのだ。だから母の虐待は、声や呼吸を奪うものが多かったのだろう。またこの方法だと、私の体に傷がつくことはないという利点もある。服の着脱がある幼稚園に気づかれると、児童相談所に通報されるかもしれない。

そして、母が虐待場所に父の書斎を選んだのは、その部屋が家の中で一番奥まった場所にあるからだ。

母がそんなことまで周到に考えていたのかと思うと、背筋がゾッとする。しかし、そんなトリプルプランが功を奏してか、近隣住民や幼稚園に母の虐待が知られることはなかった。父親にすらも――。

そう、母の虐待行為を知っているのは、当事者である私、たった一人である。それはいみじくも、誰からも救いの手を差し伸べてもらえなかった残酷な事実の裏返しでもある。そして、母の虐待に一人で挑まなければならなかったことを意味する。

■「死んだふり」をした私を見て驚いた母

そうして何度も何度も私は、母に「殺された」。それでも、我ながら生物の「生きる」力はたくましいと思う。私は母の虐待のパターンを子どもながら必死に学習し、何とかそれに立ち向かおうとしていたからだ。

ある日、私は、母の虐待を何度も受けるうちに、いつか昆虫図鑑で見たヤモリの生態を思い出していた。ヤモリは、敵が去るまで微動だにしない。そうして敵が去ると再び動き出すのだ。そうやって、ある種の昆虫や爬虫類は死んだふりをして、我が身を守るのだという。

私はある日、あのヤモリを見習って「死んだふり」をした。突如として泣きじゃくることをやめ、突然ガクンと力を抜くのだ。それは4歳の幼稚園児が必死に編み出した、痛々しいまでの生存戦略だったと思う。危機的状況を必死にサバイブするための、命を懸けた戦い。

しかし今思うと、そんな私が見せる生への執着こそが、何よりも母の苛立ちの対象だったのではないだろうか。

最初、母は突如として動きを止めた私を見て、驚いたことを私は覚えている。私の首を絞める力が一瞬だけゆるんだからだ。

しかし母のほうが何倍も、いや、何十倍も上手だった。母は、いつからか私の擬態を見破るようになったのだ。ある日を境に、母は私がガクンと力を落としても、毛布の上から首を絞め続けた。

そのときの私は再び、絶望の淵へと突き落とされたと思う。もう、「死んだふり」はできない、と――。

小さな女の子が手のひらを突き出して暴力から自分を守ろうとしている
写真=iStock.com/Serghei Turcanu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Serghei Turcanu

■虐待から逃れるために4歳の私が望んだこと

当時の私にとって母の虐待は、もはや日常だった。私は幼稚園から帰るのが、怖くてたまらなかった。この瞬間が訪れると混乱と恐怖で立ちすくみ、ガタガタと震えがくる。

母の虐待は気まぐれで、あたかもロシアンルーレットのようだった。機嫌がいいときは、気が済むと短時間で解放されることもあった。

そんなときは、「もうくるしくない」という感覚にホッとする。そうして私は再び、あの光のある世界へと還っている。光は、私が再びこの世界に生還した証しだ。それは私が呼吸をしている、まだ生きている証しだ。

しかし、私は母の虐待によって何度も生命の危機に近づいた。そのままストンと気を失うこともあったからだ。

そんなときは、気がつくとあたりは真っ暗闇になっていた。まるでタイムマシンで昼から夜に突然ワープしたような感覚なのだ。それはとても薄気味悪くて、怖かったことを鮮明に覚えている。

それでも子ども心に、わかったことがある。あっちの世界に行ってしまえば楽になるということだ。

「気を失う」と、ふわふわした毛布の中で意識が薄れていき、全身の力がフッと抜ける。すると私は一時的に「くるしいこと」から逃れられる。苦痛を感じないでいられる。そうして気がつくと、夜になっている。夜になっていれば、すべては終わっている。そんなことにある日、ふと気がついた。

生きているという苦痛――。この地獄を、生き続けなければならない苦痛。

このまま遠い世界に行ってしまえば、楽になるのに。このまま消えてしまえば、もう苦しくなんかないのに。手足の感覚がなくなり、小さな私がプツリとテレビの画面のように消え、世界から消滅してしまうこと。「いたい」「くるしい」。そんな自分を必死に表現する覚えたての言葉と、快不快の感覚だけの世界からいなくなること――。

大人になった今なら、それが「自死」を意味すると客観的に認識できる。しかし、まだこの世に生を受けてわずか4年ほどの未熟な私は、「自死」という言葉も、その概念も持っていない。それでもこの頃の私は、母の虐待から逃れるために、潜在的に「自死」を望んでいたのかもしれない、と思う。そのくらい、あの母との時間は耐えがたいものだったのだ。

■無限に続く処刑のループ

嬉しかったのは、記憶が飛んだ直後、母が決まって異様に私に優しくなったことだ。母はたび重なる虐待で気を失う私を見て、死んだかもしれないと、内心おびえていたのだろう。

私が死ねば、母は殺人者になって刑務所に送られるのだから――。しかし、そんな「大人の事情」なんて何一つわからない当時の私は、時折見せる母の優しさに有頂天になっていた。

私はあのときに母の愛を渇望していた自分を思うと、いじらしくて泣けてきてしまう。あれだけのことをされても、私は、母の愛が欲しかったのだ、と。どんなにひどいことをされても、母に優しくされたかったのだ、と。

しかし、そうやって心の底から母に対して湧き上がる感情そのものが、これから40年間続く私の人生を縛りつけ、もっとも支配してやまないものになるとは、夢にも思ってもいなかった。

菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)
菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)

私はこうやって、幼少期を生き抜いた。サバイブした。朝起きて、幼稚園に行き、バスで家に帰り、「いたくて、くるしい」母の暴力にさらされ、心身をこれでもかといたぶられた。

そうして、幾度となく父の書斎で「生」と「死」の狭間を行き来する。何度も何度も繰り返され、いつ終わるともしれない無限に続く処刑のループ。その断頭台に数え切れないほど上った私は、そうして魂の隅々まで、母に殺されたのだ。

大人になった今ハッキリ言えるのは、母のやったことは明らかな虐待行為であるということだ。そして同時に思う。虐待の恐ろしさは肉体的な苦痛だけではない。このどうしようもない無力感を、生涯にわたって子どもに植えつけることなのだ、と。大人になっても人生のありとあらゆる局面においてその感覚がぶり返し、無力感に苛(さいな)まれることなのだと。

私には母の虐待から逃れるすべがなかった。

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菅野 久美子(かんの・くみこ)
ノンフィクション作家
1982年、宮崎県生まれ。大阪芸術大学芸術学部映像学科卒。出版社で編集者を経てフリーライターに。著書に、『超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる』(毎日新聞出版)、『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』(双葉社)、『大島てるが案内人 事故物件めぐりをしてきました』(彩図社)、『家族遺棄社会 孤立、無縁、放置の果てに。』(角川新書)などがある。また、東洋経済オンラインや現代ビジネスなどのweb媒体で、生きづらさや男女の性に関する記事を多数執筆している。

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(ノンフィクション作家 菅野 久美子)

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