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藤原道長は「駆け落ち」を誘うほど本当に紫式部を愛していたのか…史料からわかる道長の女性の好み

プレジデントオンライン / 2024年3月17日 12時15分

2014年1月23日、国際宝飾展で開催された「第25回日本ジュエリー ベスト ドレッサー賞」の20代部門を受賞した女優の吉高由里子さん。もっともジュエリーが似合う著名人として表彰された(東京都江東区の東京ビッグサイト) - 写真=時事通信フォト

紫式部と藤原道長は恋人関係にあったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「道長が紫式部を買っていたのは間違いないが、史実からわかるのは、雇用者と被雇用者の関係だ」という――。

■大河で描かれた道長と紫式部のラブシーン

目下、NHK大河ドラマ『光る君へ』に関し、もっとも賛否両論に分かれるところは、恋愛劇になりすぎてはいないか、という点だと聞く。藤原道長(柄本佑)とまひろ(紫式部のこと、吉高由里子)は、たがいにそれぞれの素性を知る前から惹かれ合っているように描かれてきた。

そして、第10回「月夜の陰謀」では、ついに2人は一線を越えた。道長は和歌、まひろは漢詩で恋文を交わしたうえで、密会してラブシーンを演じたのである。

ただし、二人の関係がそれ以上は深まらないように、ドラマは仕組まれていた。

道長がまひろに「一緒に都を出よう。海の見える遠くの国に行こう」「藤原を捨てる」と駆け落ちを誘いかけると、彼女はよろこびながらも、「道長さまは偉い人になって、直秀のような理不尽な殺され方をする人が出ないような、よりよき政をする使命があるのよ」「一緒に遠くの国には行かない」と拒絶。「いとおしい道長さまが、政によってこの国を変えていくさまを、死ぬまで見つめ続けます」と伝えた。

道長の「正義」による変革に期待する、というのは、近代以降の発想で、平安王朝のドラマには似合わない。しかし、番組がはじまったときから、2人に恋愛感情がある前提でここまでドラマは進んできた。それをいったん断ち切るためには、必要な措置だったといえなくもない。

2人の関係が続いていたら、すぐ先の史実と抵触し、さりとて2人の関係を悪化させてしまえば、しばらく先の史実と合わなくなるからである。

■道長が実現した分不相応な結婚

ドラマでは、このように相思相愛の2人があえて結ばれないという道を選んだのは、寛和2年(986)6月に花山天皇が出家させられて一条天皇が即位した、いわゆる寛和の変の直前だった。

その翌年の永延元年(987)12月、道長は左大臣源雅信の娘で、ドラマでは黒木華が演じている倫子と結婚している。道長22歳、倫子24歳のときで、当時の道長にとって、宇多天皇のひ孫にあたる倫子の婿になるのは、分不相応なことだった。

『栄華物語』によれば、源雅信は当初、道長が娘に求婚したことを「あなもの狂ほし。ことのほかや(なんと馬鹿馬鹿しい。問題外だ)」と一笑に付したという。いずれ倫子を天皇の后にしたいと考えていたからだ。

菊池容斎『前賢故実』巻之六より「藤原道長」
菊池容斎『前賢故実』巻之六より「藤原道長」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

しかし、現実には、倫子は后になるのが難しい状況だった。4歳年下の花山天皇なら、年齢はなんとか釣り合いがとれたが、退位前、入内した后を極端に寵愛したり、すぐに飽きたりしていたこの天皇に娘を入内させることに、上級貴族たちが足踏みする状況だった。一方、次に即位した一条天皇はまだ7歳で、東宮も12歳。倫子はいわば行き場を失っていたのである。

それでも、藤原兼家の五男(正室の子としては三男)で左京大夫にすぎない道長では不足だと、雅信は考えたと思われるが、その妻の穆子は、状況を考えれば良縁だと夫を説得したという。

■6人抜きで権中納言に抜擢

この結婚は道長の将来を変えた。まず、結婚翌月の永延2年(988)正月、辛うじて公卿の末席につけていた道長は、6人抜きで権中納言に抜擢された。山本淳子氏は「政界トップの摂政(註・兼家のこと)の息子が源氏の重鎮である左大臣の婿になるとは、こういうことなのだ」と記す(『道長ものがたり』朝日選書)。

じつは、父や兄の結婚相手は、源倫子のような高貴な生まれではなかった。道長の母、すなわち兼家の正妻の時姫は、藤原仲正という受領(地方の長官)階級出身だった。また、長兄道隆の正妻の高階貴子も、次兄道兼の正妻であった藤原遠量の娘も、同様に受領階級の娘だった。

すなわち、「兼家の家において、血統のよい家に婿取りされて自分の〈格〉を上げようという考えを持ったのは、末子の道長が初めて」であり、「『兼家様の御子ではあるものの、ただの末っ子の坊ちゃんに過ぎない』というそれまでの道長像は、結婚ということ一つで塗り替えられていった」(前掲書)のである。

事実、倫子は2男4女に恵まれ、男子の頼通と教通はともに関白太政大臣にまで上り詰めた。女子も彰子、妍子、威子が中宮になり、四女の嬉子こそ、東宮に入内したが早世したため中宮にはならなかったものの、息子はのちに後冷泉天皇になっている。

■史実に見る道長の女性の好み

むろん、この結婚は道長一人が望んで実現したわけではなく、父の兼家の策略等もからんでいるだろう。だが、道長に結婚を立身出世につなげようという意志があったのはまちがいない。

ドラマでは、道長のこうしたねらいは、まひろから告げられた「よりよき政をする使命」に根差すものとして描かれるのかもしれない。しかし、実際の道長は、結婚について親兄弟以上に現実的で、駆け落ちを夢想するようなタイプではなかったと思われる。

というのも、道長は倫子の前にも源氏の娘を妻にしている。醍醐天皇の子である源高明の娘、明子である。

父の高明は安和2年(969)、左大臣の要職から追われて太宰府に流されたので(安和の変)、叔父の親王の養女になっていたが、親王が没したため、道長の姉で、即位した一条天皇の母として皇太后になった詮子のもとに引きとられた。

なにしろ、天皇の孫という貴種だから、明子には何人もの男が結婚を申し込んだそうだが、おそらくは詮子の導きで道長と結ばれた。

倫子と違って明子には後見がなかったため、おのずと倫子との結婚とは違ったものになったが、それでも道長は明子とのあいだに4男2女をもうけた。史実に見える貴種好みの道長と、駆け落ちをしようと思い詰めるドラマの道長。

若気の至りはだれにでもあるものだが、やはり後者はファンタジーの域を出ないのではないだろうか。

■紫式部はなぜ「源氏物語」を書いたのか

実際、道長と紫式部のあいだに恋愛関係があったという記録はない。それどころか、紫式部は長徳4年(998)の冬、おそらく26歳くらいで藤原宣孝と結婚する以前、恋愛が推測されるのは、20代前半で詠んだ以下の歌くらいである。

「おぼつかな それかあらぬか 明ぐれの 空おぼれする 朝顔の花(夕べ私の部屋に忍び込んだのは、本当にあなた? 夜明け前で薄暗く、この花が朝顔なのかどうかはっきり見えないので)」

『源氏物語絵巻』より、『源氏物語』第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)東京芸術大学日本画研究室 現状模写
『源氏物語絵巻』より、『源氏物語』第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)東京芸術大学日本画研究室 現状模写〔写真=1150/PD-Art(PD-old-100)/Wikimedia Commons〕

宣孝の死去で、紫式部の結婚生活は2年で終わり、その数年後の寛弘2年(1005)か3年(1006)、一条天皇の后となった道長の長女、彰子のもとに出仕した。道長と紫式部の接点がはっきり見えるのは、その前後からである。

紫式部が『源氏物語』の執筆をはじめたのは、宣孝の死後、宮廷への出仕前だと考えられている。だた、当時は書くための料紙が非常に高価だった。歴史学者の倉本一宏氏の計算では、全54巻には617枚の料紙が必要となり、書き損じや下書きをふくめると、そんな枚数では済まなかったはずだという。

そのうえで倉本氏は、「これらの料紙、そして筆や墨を紫式部に与え、『源氏物語』の執筆を依頼(または命令)した主体として、道長を想定することは、きわめて自然なことであろう」と書いている(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。

その目的は「この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげることであった」と記す(前掲書)。

■道長は紫式部の能力を買っていた

道長の期待は、一条天皇のもとに入内させた彰子が皇子を産むことにあった。彰子のもとに『源氏物語』があれば、物語好きの天皇が彰子の在所を頻繁に訪れ、懐妊の可能性が高まる――。紫式部にこの物語を書かせたのは、そういう目的にもとづくというのである。

むろん、それは紫式部の教養と能力を道長が評価していたからにほかなるまい。その点では、2人の接点は以前からあったのだろう。紫式部が彰子のもとに出仕した際、公的な官があたえられたわけではなく、私的に採用されている。道長に見込まれ、『源氏物語』の続きを執筆することを期待されての出仕だった可能性が高いと思われる。

期待どおりに彰子が懐妊したのは、寛弘4年(1007)の暮れで、翌5年(1008)9月に敦成親王(のちの後一条天皇)が誕生した。その2カ月足らず前には、『紫式部日記』の執筆がはじまっている。

この日記についても、前出の倉本氏は「道長としては、自己の家の盛儀を仮名で詳細に記録させ、これを近い将来の妍子や威子、はては後の世代の摂関家后妃にとっての先例として残しておきたかったのだろう」と書いている(前掲書)。

ドラマでは、紫式部が「政によってこの国を変えていく」ことを期待した道長だが、史実から見えるのは、自身と一族の繁栄ばかりをひたすら願う姿である。そんな道長が、紫式部を高く買っていたのはまちがいないが、それも一族の繁栄に役立つからであった。

彼らの若き日の姿は伝わっていない以上、まひろとの熱愛が「なかった」とはいい切れないが。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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