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「すぐ死ぬために生まれてくるようなもの」…お腹の子が「生存率10%」と告げられた母親がそれから取った行動

プレジデントオンライン / 2024年3月22日 7時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/paulaphoto

「生命の設計図に大きなエラーがある」。笑(えみ)さんと航(わたる)さんの夫婦が授かった子は、妊娠20週での健診で「18トリソミー」と告げられた。通常は2本である第18番染色体が3本になっているため、脳や心臓などに重篤な障害を合併する。夫婦を取材した小児外科医・松永正訓さんの著書『ドキュメント 奇跡の子 トリソミーの子を授かった夫婦の決断』(新潮新書)より一部を紹介する――。

■1本多いと異常が出てしまう

笑と航は18トリソミーについて調べた。まずはノートパソコンを開いて検索することから始めた。調べ物は得意だった。仕事柄、勉強することは習慣化しているし、好きだった。

18トリソミー。18番目の染色体が3本ある状態。1本少なければ異常が出るという理屈は分かりやすいが、1本多いとなぜ異常が出るのか、その理由ははっきりと分かっていないという。染色体の番号が大きいほど、染色体のサイズは逆に小さい。おおまかに言って、染色体のサイズが小さければ載っている重要な遺伝子の数も少ない。

だから21トリソミーであるダウン症は患者が比較的多いし、障害の程度も穏やかだ。18トリソミーは、3500~8500人に一人の割合で生まれる。13トリソミーは、5000~12000人に一人の割合で生まれる。13トリソミーも18トリソミーも、心奇形や脳の形成不全などの重篤な障害を合併する。

13、18、21以外のトリソミーは存在しない。そういった受精卵は流産になるので、生まれてこない。正確な数は不明であるものの、妊娠早期の流産はほとんどが染色体のトリソミーという説も有力だ。

■1年の生存率はわずか10%

18トリソミーも、生まれてくること自体が奇跡的だ。18トリソミーの受精卵は着床しても94%が流産・死産になり、生まれてくる確率は6%に過ぎない。

生まれながらの合併奇形は脳や心臓だけに留まらず、多数の臓器に及ぶ。予後は著しく不良で、従来の医学書には1カ月の生存率は50%、1年の生存率は10%と書かれていたらしい。

笑たちは調べれば調べるほど、18トリソミーは医療から見放された病気であることが分かってきた。「積極的な治療はしない」とか「看取りだけを行う」とかそういう言葉が目についた。

また検診で指摘された横隔膜ヘルニアも大変予後の悪い病気と知った。全体の治療成績は75%だが、これは軽症例も含めた数字である。この病気は診断が早期であればあるほど成績が悪くなる。ふつうの病気は早期発見で治療成績がよくなるが、横隔膜ヘルニアは逆だった。

胎児期の早い段階からヘルニアがあると肺が成熟せずに、生まれたあとに自力では呼吸できないのである。胎児超音波で横隔膜ヘルニアが見つかり、肺の容積が小さい場合、生存率は30%未満だという。

笑は勉強すればするほど、疑問が深まった。

■予後が悪いのは、治そうとしないからではないのか

18トリソミーは、重い多発奇形を伴うから予後が悪い。だから治療しない。それって論理が矛盾していないだろうか。医学が進んだ今日、心臓の病気でも横隔膜ヘルニアでも治せる子は治せる。

治そうとしないから、予後が悪いのであって、できる限りの治療を受ければ予後が悪いということはないのではないか? 18トリソミーという染色体異常だけで、子どもが亡くなることはないのではないかと笑には思えた。

18トリソミーで横隔膜ヘルニア。こうした赤ちゃんを治療してくれる病院はないだろうか。笑は必死で検索した。18トリソミーの子を育てた親のブログがけっこう見つかる。体験談は心強い。淡白な医師の説明よりも、はるかに心に響く。必死になって我が子を育てている同じような境遇の親がいることが、それだけで心の支えになった。

次から次にブログを読みまくっているうちに、ある母親のブログに行き当たった。さくらちゃんのママが書いたものだ。さくらちゃんは、18トリソミーで横隔膜ヘルニアだった。「手術を受けた」と書いてある。

数年前に東京で生まれて、妊娠中に横隔膜ヘルニアの診断を受け、生まれてから手術を受けたという。ただ、手術は成功したものの、その後、家に帰って家族と共に楽しく暮らしていたが、数年後に風邪をこじらせ呼吸器疾患で亡くなったと綴(つづ)られていた。

でも、18トリソミーでも横隔膜ヘルニアの手術をしてくれる病院が実在する。そのブログに笑は吸い寄せられた。

■「渋谷」「病院行き」「バス」といえば…

ところが、そのブログには病院名が書かれていなかった。笑は過去に遡ってどんどんブログを読み進めた。深夜になっていた。病院の名前は伏せられていた。「○○病院」としか書かれていない。病院の中にはタリーズコーヒーがあるとの記述があった。しかしそれでは探しようがない。一体どこだろう?

そのとき、笑の目はある一文に釘付けになった。さくらちゃんのママが買い物をしたあと、さくらちゃんのいる病院に戻る際、「渋谷駅から病院行きのバスに乗った」という文章があった。笑は、仕事で渋谷を通ることが多い。だから渋谷駅のことには詳しかった。

渋谷からバスに乗って行くことのできる病院はいくらでもあるが、「病院行き」という行き先表示がバスに掲示されているのは、日赤医療センターしかない。このバスは「日赤医療センター行き」のことだ。ついに見つけた!

時刻は午前2時過ぎだった。隣で航が寝ている寝室で、布団の中の笑は興奮してガッツポーズをした。ここに行けばいいのだ。

絶対にここに転院しよう。そしてお腹の赤ちゃんをこの病院で生みたい!

■「なんて強い子なの」

その後、笑は羊水検査を受けた。そして結果を聞きに行くことになった。その日、航は札幌に仕事で出張だったため、笑は一人で結果を聞きに行った。

診察室に先日の医師がいた。やはり硬い表情だった。医師は数十枚の厚さの書類を取り出した。そのうちの1枚を渡される。そこには染色体の絵が描かれていて、18番目の染色体が3本になっていた。

「診断は18トリソミーです。これで確定です」
「……」

笑は何も言えなかった。しかし、別にショックはなかった。そんなことは前回の超音波検査ですでに分かっている。今さら確定と言われても動じなかった。

(それがどうした)

笑は冷静だった。18トリソミーであろうがなかろうが、私たち夫婦の可愛い赤ちゃんには変わりがない。20週になってもお腹の中で生きているなんてすごいじゃないか。なんて強い子なの。笑は、親として子どもにできる限りのことをしてあげたいと心の中で声を上げた。

患者と話す医師
写真=iStock.com/byryo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/byryo

医師はそれ以上、何も説明しなかった。そして質問を浴びせてきた。

「どうしますか? 妊娠は継続しますか?」
「継続します」

笑がそう言うと、医師は電子カルテのPCに向かって文字をカタカタと打ち込んだ。「妊娠継続を希望」と書いているのが見えた。

■転院したいと言ったとたん、医師の態度が…

笑は、わざわざ何でこんなことを書くのだろうかと疑問を感じた。そうか、大抵の人は中絶を選ぶのだと腑に落ちた。そうした医師の態度を笑は冷めた目で見ていた。

だが、今日は結果を聞いて終わりではない。大事な用件がある。

「あのう……こちらで羊水検査を受けてお世話になったのですが、私たち夫婦は仕事をしていてとても忙しいのです。ここまで通うのは遠くて大変なんです。自宅と職場の近くにある日赤医療センターに転院して出産したいんです」

笑は、積極的な治療を望んでいるからという理由は持ち出さなかった。それを言い出すと、同じ周産期母子医療センターとして東京都から認定されているX病院と日赤医療センターとの間で、転院するのが難しいかもしれないと思ったのだ。

転院という言葉を出すと、医師は「え、うちで生まないの?」と軽く身を乗り出してきた。

医師は気が楽になったのかと笑は思った。

「日赤医療センターだね。電話をかけてあげるよ」

医師はそう言って笑の目の前で受話器を握った。交換手に日赤の産科の名を告げてちょっと待ち、電話が繋がると医師は切り出した。

■保留音が続き、そして……

「羊水検査で18トリソミーと確定して、横隔膜ヘルニアと心奇形があります。母親は仕事が忙しくて近くの日赤への転院を希望しているんです。受け入れてくれますでしょうか? はい、はい、ちょっと待ってます」

受話器からは保留音が聞こえてきた。

笑は身を固くしてその保留音を聞いた。心臓がドキドキするのが分かった。

思ったより早く保留音が止まった。

「そうですか。それでは紹介状を書いて母親に渡しておきますので、よろしくお願いします」

これでやっと出産する病院が決まり、笑はホッとした。重症の赤ちゃんをすぐさま受け入れてくれるのは、日赤にそれだけの実力と経験のある証しかもしれない。また、X病院の産科の責任者が直に電話してくれたことも、すぐに引き受けてくれたことに影響したのかもしれない。

いずれにしても自分は幸運だと思った。生まれてから赤ちゃんを日赤に搬送するなんてたぶんできないはずだ。生まれる前に日赤へ行けることになって、笑はまず一つ親としての義務を果たした気持ちになった。

電話を切ると医師は電子カルテに向かって紹介状の文章を入力し始めた。笑は当初、出産する病院を愛育病院と日赤医療センターの二つで迷って愛育病院に決めた。今は日赤医療センターが唯一の希望になっている。それを考えると少し複雑な気持ちだった。

紹介状を受け取り、笑はX病院をあとにした。

■ちゃんと説明してほしかった

その夜、笑は航と共に、病院からもらった羊水検査の結果の書類をテーブルに広げていた。何十枚もあってそのほとんどが英語だった。医師からは「18トリソミーで確定です」の一言があったのみで、この英文については何の説明もなかった。今さら翻訳して読んだところで18トリソミーの事実は変わらない。二人は読む気も起こらなかった。

検査結果には日本語の書類も入っていた。18トリソミーの一般的な説明が書かれており、その中にこういう一文があった。

「羊水検査を受けて18トリソミーと確定した場合、出産までに67.5%が流死産に終わると言われています」

分かってはいたことだったが、かなりの確率の高さに笑はショックを受けた。こういう大事なことを何で医師は説明してくれないのだろう。「ちゃんと説明してほしかったね」と笑は航につぶやいた。

お腹の中の赤ちゃんはいつ心臓が止まるか分からない。それを考えると笑は怖かった。子どもの死に怯えながら妊婦はどうやって生きていけというのだろうか。でも、笑は前向きに気持ちを切り替えた。これが現実なので仕方ない。絶対に諦めない。

「なんとかがんばって生まれてきてね」

笑はお腹に向かって言葉をかけた。

■病院から歓迎されているようだった

翌週、笑と航は自家用車で日赤医療センターに向かった。朝9時の予約だったので、その15分前に到着するようにした。病院は、採光を十分に配慮した建物で、ガラス窓が壁一面に広がっていた。

13階建の威容を誇り、病床数は700を超えるという超近代的な巨大病院だった。正面入口から入ると、広い待合ホールの一角にタリーズコーヒーがあった。それを見て、笑たちは「ここに間違いない!」と確信した。

受付に行ってみると、すでに診察券が発行済みになっていた。病院から歓迎されているようで笑はうれしかった。

体重測定・尿検査・血液検査を受けてから、笑は産科の診察室の前で待った。少しして名前を呼ばれる。部屋に入るとカラッと明るい雰囲気の女性医師が待っていた。

紹介状を読み終えていた女医は、「では早速、超音波検査をやってみましょう」と検査室へ笑を誘導した。

「その子に最もふさわしい治療を行います」

暗い部屋でお腹を出し、エコーゼリーの塗られたプローブが押し当てられる。笑は医師と一緒に超音波のモニターに目をやった。脳・心臓・肺・腕と医師は順番に確認していく。

そう言えば、X病院で超音波検査を受けたとき、暗い検査室で研修医と思われる見学の医師が立ったまま目をつぶって眠りそうになっていたのを思い出した。部屋が暗いし、研修医は激務だろうから眠くなるのは分からないでもなかったが、あれはちょっと印象がよくなかった。

妊婦のおなか
写真=iStock.com/blueshot
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/blueshot

■18トリソミーは「生存率10%」ではなかった

超音波検査が終わって笑と航は診察室に招かれた。女性医師の診断はX病院の診断と概ね同じだった。ただ決定的に違っていたのは、最も大事な治療方針だった。

笑の方から話を切り出した。

「前の病院では、18トリソミーで横隔膜ヘルニアがある場合、治療は行わないと言われたんです。死産になるかもしれないし、生まれてすぐに亡くなるかもしれませんと。治療をしても助からないので、治療はしないという説明でした。私たちは納得がいかないんです」

女医はすぐに軽やかな声で返事をした。

「18トリソミーに関係なく、普通のお子さんと変わらず、その子に最もふさわしい治療を行います。それでよろしいですね?」

笑の心はパッと明るくなった。心の中で(えー!)と叫んでいた。

「ご存知かもしれませんが18トリソミーは、治療しないと1年生存率が10%です。でも、治療をすれば30%になります。さらにうちで治療をすれば50%になります」

今度は(えええーーー?)と叫んでいた。

■病院によって対応がここまで違うとは

松永正訓『ドキュメント 奇跡の子 トリソミーの子を授かった夫婦の決断』(新潮社)
松永正訓『ドキュメント 奇跡の子 トリソミーの子を授かった夫婦の決断』(新潮社)

病院によってここまで対応も、治療成績も違うのだ。笑には衝撃的だった。お腹の子が生存の方の50%に入るかどうかは分からない。だけど、少しだけ希望を持つことができる。最大限の治療を受けて、できる限りのことをやってもらったら……もし命が果てたときに受け入れられる……かもしれない。

笑と航は医師に「これからよろしくお願いします」と頭を下げた。医師は明るく「産科と新生児科と小児外科と心臓外科と麻酔科で力を合わせてやっていきますね」と言ってくれた。

帰りの車の中で笑は航に語りかけた。

「私たちは恵まれているかもしれないね。東京の都心にいて、医療機関の選択肢があるんだから、それってすごく幸せなことだよね」

お腹の赤ちゃんの闘病はこうしてようやくスタートラインに立った。

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松永 正訓(まつなが・ただし)
医師
1961年、東京都生まれ。87年、千葉大学医学部を卒業し、小児外科医となる。日本小児外科学会・会長特別表彰など受賞歴多数。2006年より、「松永クリニック小児科・小児外科」院長。13年、『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』(小学館)で第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞。19年、『発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年』(中央公論新社)で第8回日本医学ジャーナリスト協会賞・大賞を受賞。著書に『小児がん外科医 君たちが教えてくれたこと』(中公文庫)、『呼吸器の子』(現代書館)、『いのちは輝く わが子の障害を受け入れるとき』(中央公論新社)、『どんじり医』(CCCメディアハウス)などがある。

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(医師 松永 正訓)

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