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出世して給料が上がっても、幸せになれない…資本主義の「しんどさ」から脱却するために必須の仏教的な視点

プレジデントオンライン / 2024年4月2日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AH86

生きやすくするには、どんな心の持ちようが必要か。僧侶の松波龍源さんは「現代社会を“現代的”たらしめている社会制度に目を向けすぎても幸せになれるわけではない。制度には人間の心のあり方が現れ、それを重視することが、現代社会のしんどさを脱却する鍵になる。たとえ政治が腐敗していても、道路が舗装されていない地方の村でも、そこにいる人々がじゅうぶんに叡智を磨いたならば、自分たちの力で豊かに生きていくことは可能であり、そこは理想郷になり得る」という――。

※本稿は、松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。

■資本主義の「しんどさ」から脱却するための視点

本稿のテーマは「ポスト資本主義」です。人類が資本主義を発明して以来、経済は飛躍的に成長し、そのおかげで私たちは便利で豊かな生活を享受してきました。

ただ、物質的な豊かさが行き渡った昨今は、その負の側面が目立つようになっています。経済成長を優先すれば地球環境に負荷がかかりますし、資本主義の性質上、富が特定の人に集中するため、一方で日々の生活さえままならない人が以前より増えています。

厚生労働省がおこなった2023年度の調査では、相対的貧困率は15.4パーセントに達しており、日本人の約6.5人に1人が貧困という結果が出ています。もはや他人事ではありません。

要するに、今の社会のあり方はベストではない。グッドどころか、かなりしんどいわけです。じゃあどうしたらいいのかと次の社会のあり方、つまり「ポスト資本主義」を考えようとする動きが広がっています。

ポスト資本主義を模索する動きには、どんなものがあるでしょうか。

株式会社を例に考えてみると、これまでは株主の利益が最優先とされてきましたが、最近では取引先や従業員、地球環境にも同時に配慮することが求められるようになってきました。

「ステークホルダー資本主義」ともいわれ、江戸時代の近江商人の思想「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」が見直されるような議論も起きています。

またカーシェアやシェアハウスなどのシェアリングエコノミーは、個人レベルのアクションとしてすでに普及しつつあります。今まで個人や家庭で一つずつ所有していたものをみんなで使うことで、利用者の経済的負担や環境への負荷が軽減されるのです。

実は私たちが運営する寳憧寺も、ポスト資本主義を模索するアクションの一つです。今の社会をより良く生きるにはどうしたらいいか。この問いを突き詰めていったとき、私は「仏教だ」と考えました。

その仮説が合っているかを証明すべく、さまざまな取り組みを試すから「実験寺院」なのです。まだ明確な答えは得られていないものの、たくさんの方が興味を持って寳幢寺を訪ねてくださるので、今のところ、仮説は間違っていないのではないかと考えています。

■なぜ、現代社会を生きるのがしんどいのか

ポスト資本主義の前に、まず今の「しんどい」社会はどういったシステムなのか考えてみましょう。

私たちが生きる先進国の現代社会は、資本主義が社会のOS(基本システム)のようになっています。この社会を論じるときの一つのポイントが、「唯物論・進化史観・弁証法」です。

急に哲学的な言葉が三つも出てきましたが、焦らないでください。一つずつ説明しますね。

唯物論(※)とは文字通り「ただ、物だけがある」という意味です。現代社会はまさに、この唯物論で回っていると言っても過言ではありません。というのも、定量的に観測できるもの、つまり数値化できるものだけで社会が設計されているからです。

たとえば、企業活動を見てみましょう。バランスシート(貸借対照表)には数値で表せるものだけが記載されます。最近では従業員満足度などを調査することもありますが、企業を評価する公の指標にはなっていません。これはまさしく唯物論です。

この唯物論とともにあるのが、進化史観です。新しく生まれるものは古くから存在したものより良くなっていく、進化していくはずだという考え方です。そして、この進化史観に基づく思考法として、西洋哲学に特徴的な弁証法があります。

弁証法とは、対立するAとBがあるとき、それがぶつかり統合されることで、さらなる高みへ進み、それを繰り返すことで究極の真理へ進むという概念です。

18世紀の哲学者ヘーゲルによって定式化されました。現代の資本主義はこれら西洋由来の世界観を背骨に、社会のOSとして機能しています。

【図表1】弁証法の思考とは
出所=『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』

■絶対的勝者が決まるまで、永遠に「闘争」が続く

ところで、唯物論をベースにして社会を考えると、心の問題は「ない」ことになります。物質的に満たされれば心も幸せになるはず、という思想だからです。

しかし実際には「出世して給料が上がった。地位も上がった。けれどむしろストレスが増えた……」という人が山ほどいます。

進化史観は、われわれに「向上する」ことを強いてきます。心地よい状態にとどまることは否定されがちで、より良き状態への進化を求められます。その「良き状態」は幻想かもしれないのに、目に見える結果が常に必要とされるのです。

そして弁証法は、永遠の「闘争」を生み続けます。対立概念の併存は認められず、どちらか「正しいほう」の選択か、第三の道へ「進化」するしかありません。絶対的勝者が決まるまで、「闘争」は続いてしまうのです。

しかし、そのような「絶対的な何か」はあり得るのでしょうか、「個人の心」は無視していいのでしょうか。敗者は淘汰されるべきでしょうか。一神教的な宗教としては「あり」かもしれませんが、人類のOSとしてはどうなのでしょう。

このような社会では、しんどいのは当然のことかもしれません。

■人を幸せにするのは、社会制度よりも心のあり方

現代社会を考えるうえで大切なのは、一人一人の「心のあり方」です。

現代社会を“現代的”たらしめているものの一つに、社会制度があります。民主主義などの統治システムに始まり、法律や年金、保険など、さまざまな社会制度に準じ、守られることで私たちは生きています。

それはとても素晴らしいことですが、社会制度に目を向けすぎて、それを使って生きている一人一人の心のあり方を軽視しているのではないでしょうか。先ほど述べた唯物論で考えると、心の問題が「ない」ことになる、という話にもつながります。

たしかに社会制度が悪ければ、そこに生きる人が不幸になる可能性は高いでしょう。反対に良い制度下であれば幸せに生きられる可能性は高まりますが、制度さえあれば100パーセント全員が幸せになれるわけではありません。

制度には、それを運用する人間の心のあり方が表れます。どんなに素晴らしい制度を作っても、それをハックして一人勝ちを狙う人がいれば、社会はまともに機能しなくなってしまう。

逆にいえば、心のあり方を重視することが、現代社会のしんどさを脱却する鍵になるのではないでしょうか。

■真の叡智があれば、そこは理想郷になり得る

それをよく表しているのが、20世紀半ばにスリランカのA・T・アリヤラトネという社会活動家が提唱した「サルボダヤ運動」です。

サルボダヤとは「すべての目覚め」という意味で、仏教的な精神に基づき、一人一人の個人が目覚め、賢くなって自立し、非暴力的に社会変革をめざす運動です。

ここでいう賢さとは、小賢かしさではなく真の叡智です。たとえ政治が腐敗していても、道路が舗装されていない地方の村でも、そこにいる人々がじゅうぶんに叡智を磨いたならば、自分たちの力で豊かに生きていくことは可能であり、そこは理想郷になり得ると考えます。

田んぼ
写真=iStock.com/DavorLovincic
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/DavorLovincic

この考え方は、われわれが生きる現代社会でも有効ではないでしょうか。政治や社会保障制度はもちろん大切ですが、同時に自分自身はどうなのか。それを省みることなくすべて政治や制度の問題だと考えるのは、誠実な態度ではありません。

①社会全体が無自覚に前提視してしまっている世界観と、②そこに生きる一人一人の心の問題。われわれが直面する社会課題を解消するには、この二つを合わせて考えることが必要なのです。

■「三方よし」の仏教哲学的ロジック

次に、矛盾が目立つようになってきている資本主義そのものについて考えてみます。資本主義の性質上、短期的・個別的な利益の追求が最適解となりがちです。

従業員のプライベートを犠牲にしてでも会社の売り上げを伸ばそうとする経営者や、相手を陥れてでも自分の利益を確保しようとする人もいます。

しかし、それで世の中が回らなくなってきているのは冒頭で述べた通りです。短期的・個別的な利益の追求が一概に悪いわけではありませんが、長期的・全体的な利益を重視することが、ポスト資本主義的な社会といえるのではないでしょうか。

長期的・全体的な利益の重要性は、仏教の「中観(ちゅうがん)」「唯識(ゆいしき)」で説明することができます。

本書で詳しくご説明していますが、中観とは「あらゆるものごとは因果関係と相対性を持つ。ゆえに万物に絶対的、独立的な実存性はない」という考え方。

唯識とは「ただ認識がある」との文字通り、「あらゆるものは何かに認識されることによってのみ存在する」という考え方です。

この考えを前提にすると、「私」という概念は「他者」があってこそ成り立ちます。なぜなら、広い宇宙に自分一人しかいなければ、「私」という概念は必要ないからです。

だとすれば、他者が存在することで「他者ではないものとしての私」が確定し、逆に「私」がいるからこそ他者の存在も確定するという相互関係も見えてきます。すると、「私」は、他者と関わらずに自分だけで存在することはできないとわかるでしょう。

たとえば製造販売の会社なら、買ってくれる顧客はもちろん、部品を提供してくれる取引先がいなければ成り立ちません。

松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)
松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)

だから、自社だけ儲けようとして下請けを締めつけたりすると、必ずどこかでひずみが生じる。局所最適を目指すあまり、全体が崩壊してしまうのです。

すべてのものは周囲とのバランスで成り立っているので、自分だけ利益を得ればいいという態度は結果的に崩壊を招き、自らを苦しみに陥れることになる。反対に、他者の利益を考えることは、他者と切り離せない「私」の利益を考えることにもなります。

これが、仏教の基本的なスタンスです。

※物質のみを真の存在として、最重要視する考え方。そのため精神は派生的なものであるとされる。

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松波 龍源(まつなみ・りゅうげん)
僧侶・思想家
実験寺院寳幢寺僧院長。大阪外国語大学(現:大阪大学)外国語学部卒・同大学院地域言語社会研究科博士前期課程修了。ミャンマーの仏教儀礼を研究するうちに研究よりも実践に心惹かれ出家。現代社会に意味を発揮する仏教を志し、京都に「実験寺院」を設立。学生・研究者・起業家・医師・看護師などと共に「人類社会のアップデート=仏教の社会実装」という仮説の実証実験に取り組んでいる。

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(僧侶・思想家 松波 龍源)

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