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実力者を婿養子にして社長の座を譲る…究極の1本釣りによる「女系世襲」を続けたスズキの手堅い継承戦略

プレジデントオンライン / 2024年4月28日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sjo

自動車販売数でトヨタ、ホンダ、日産の3強に次ぐ4位に入り、手堅い経営戦略を見せるスズキ。系図研究者の菊地浩之さんは「創業は115年前。鈴木自動車工業時代も、社名をスズキとしてからも、息子ではなく婿養子に社長の座を譲ってきた。創業者の鈴木道雄は地元・浜松市の工業高校在学中の成績から、2代目社長・鈴木俊三を長女の婿に選んだ。そういった実力重視のトップ継承にもスズキの強さがあるのではないか」という――。

■業界ナンバー4、スズキの国内工場は全て静岡県内にある

2024年4月、川勝平太・静岡県知事が辞職を表明した。川勝知事はことあるごとにJR東海に難癖を付け、リニアモーターカー事業の最大の障壁だといわれたが、ネットでは元スズキ社長・鈴木修が同事業を反対し、知事の発言は鈴木の意向を汲んだものだとの報道が流れた。

報道の真偽はさておき、スズキの中興の祖・鈴木修が静岡財界の重鎮であることは間違いない。ご本人は「中小企業のおやじ」と自称し、スズキは自動車販売台数国内2位になった今でも地元静岡を忘れない。本社を静岡県浜松市に置き、県内ナンバーワン企業であるのみならず、国内の5工場はすべて静岡県内(の遠江地方)。莫大な就業人口を支えている地元密着型企業なのだ。

これはTOYOTA(トヨタ自動車)、HONDAと比較すればよく分かる。実はスズキを含めた3社の創業者はいずれも浜名湖周辺の出身なのだが、TOYOTAは大規模工場建設にあたって隣県(愛知県)に移り、HONDAは本社を東京都青山に置き、両社は生産拠点を1つも静岡県内に置いていない。これでは静岡県(知事)はスズキに頭が上がらないだろう。

■創業者・鈴木道雄の立身出世物語

スズキの創業者・鈴木道雄(1887~1982年)は静岡県浜名郡芳川村(浜松市中央区)の農家に生まれ、尋常小学校を卒業すると大工になった。しかし、1904年に日露戦争が勃発するとその影響で大工の仕事が減少したため、師事していた親方が足踏織機(あしぶみしょっき)を製作しはじめ、道雄も織機の作り方を習得する。

同郷の豊田佐吉(とよださきち)は道雄よりちょうど20歳年長で、1896年に動力織機を発明して特許を取り、1906年に三井物産等の出資で豊田式織機株式会社(現 豊和工業)を設立していた。親方や道雄もそれに刺激を受けたのだろう。

1909年、道雄は鈴木式織機製作所を設立して織機の製作を企業化。織機の改良を重ね、1913年に鈴木式力織機を発表して急成長をとげた。1920年、資本金50万円で鈴木式織機株式会社を設立し、道雄が取締役社長に就任した。なお、1954年6月に社名を鈴木自動車工業株式会社、1990年にはスズキ株式会社に社名変更している(以下、スズキに表記を統一)。

■織機からオートバイ、自動車へと業種転換してきた

道雄は織機が長持ちする製品であることから事業の多角化、業容転換を思案。当時(1930年代中盤)は国内で自動車産業が勃興し、政府が産業振興策に乗り出していたことから自動車製造にチャレンジするが、軍需品増産のため、その夢を諦めざるを得なかった(1937年にトヨタ自動車工業が設立されている)。

戦後、同郷の本田宗一郎が国産初のオートバイ製造に成功。浜松では本田に続けとばかり、30社余りが二輪車製造に参入した。スズキも1952年に進出し、道雄の婿養子・鈴木俊三が開発を指揮した。道雄は浜松高等工業学校(静岡大学工学部の前身)の卒業生名簿を入手して、在学中の成績と照らし合わせ、鈴木俊三を長女の婿養子に選んだという。俊三は道雄の期待に応えて、自動二輪(モーターバイク)製造に成功。業界は飽和状態となり、淘汰の波が押し寄せたが、1960年代末には4社体制(スズキ、HONDA、ヤマハ、川崎重工業)に落ち着き、スズキはその一角に生き残ることができた。

それと併行して、道雄は次女の婿養子・鈴木三郎をリーダーとする社長直轄の四輪車開発室を設置、自動四輪車(つまり自動車)の研究を開始した。これに鈴木俊三が経営的な観点から反対したが、道雄はこれを押し切って、1954年1月に第一号試作機を発表し、翌1955年10月に軽四輪車「スズライト」販売にこぎ着けた。

■スズキの婿養子戦略は1本釣りのヘッドハンティング?

道雄には3人の娘がおり、みんな婿養子をとった。1957年、道雄は長女の婿・鈴木俊三に2代目社長の座を譲り、1973年には三女の婿・鈴木実治郎が3代目社長を継いでいる。

1973年といえば、オイル・ショックがはじまった年である。1950年代中盤から日本は高度経済成長の波に乗り、急成長を遂げてきたが、オイル・ショックを機に低成長時代に突入する。スズキも1974年に経営危機に陥り、同時期の排ガス規制の厳格化に対して新型エンジン製造にチャレンジするが失敗してしまう。

1977年には6月に2代目社長・鈴木俊三が死去。10月に創業者・鈴木道雄が病に倒れ、11月には社長・鈴木実治郎が脳梗塞で倒れる。そこで、鈴木俊三の婿養子・鈴木修が4代目社長に選ばれた。

【図表1】鈴木自動車工業~スズキの社長継承図
筆者作成

■中興の祖・鈴木修は入社後、オートバイ工場で実習した

鈴木修(1930~)は岐阜県益田郡下呂町(現・下呂市)に生まれた。旧姓は松田(マツダからスズキだ)。田舎から出たいという一念で、海軍甲種飛行予科練習生に合格(いわゆる予科練で、のちに特攻隊の中核となったので、もう少し第二次世界大戦が長引いていたら、おそらく死んでいただろう)。戦後に中央大学法学部を出て、中央相互銀行(現在の愛知銀行)入行。営業で才能を開花させ、鈴木俊三に見出され、1958年に長女・すま子の婿養子となった。

スズキはその前年1957年から学卒者採用をはじめ、修は2期生と一緒に3カ月のオートバイ工場実習を経験した。

オートバイ工場といっても、その実情は木造平屋の掘っ立て小屋。組み立てラインはベルトコンベヤーではなく、人力で回していた。部品メーカーは零細企業ばかりで、生産管理などロクにできておらず、納期は不正確。欠品が相次ぎ、中途半端にできあがったオートバイが工場内に安置され、部品が届いてやっと完成というお粗末な状態だったという。

■軽自動車「アルト」の仕様を変更し、低価格路線で大成功

修は3カ月の工場実習を終え、企画室に配属されるが、そこに現場から上がってきた報告はキレイに化粧されていた。修は工場の実態を知っているので、その数字がウソだらけであることを知っている。社長(義父)に直訴して1週間で現場(工程管理課)に出してもらったという。入社3年目の1961年に工場建設の責任者に抜擢され(押しつけられ)、そこで予算より安く工場を建設、増産を果たして認められ、1963年に33歳の若さで取締役に選任される。

鈴木修は1978年に社長に就任すると、当時開発中だった軽自動車「アルト」の販売を1年延期して仕様を再検討し、商用車と乗用車の中間モデルを50万円以下の低価格で売り出す戦略を発案した。また、当時の自動車は輸送費の関係から、工場から遠い地域は値段が高く、全国統一価格ではなかった。これを全国統一価格の47万円に設定して、値段を連呼するCMを全国放送で流すという思い切ったアイデアで勝負した。「アルト」は1カ月目に8400台、2カ月目には1万台を超す注文を受けるほどの大ヒットを飛ばした。また、1993年にはワンボックスカー「ワゴンR」を発売している。

ジャパンモビリティショーでの鈴木俊宏社長、2023年10月25日、東京都
写真=EPA/時事通信フォト
ジャパンモビリティショーでの鈴木俊宏社長、2023年10月25日、東京都 - 写真=EPA/時事通信フォト

■自動車メーカーとなってからの海外戦略の成功と失敗

1981年にスズキはGM(ゼネラルモーターズ)と資本提携を交わした。GMは1000ccクラスの小型車を共同開発する相手、スズキは北米市場進出の仲介役を探しており、提携に踏み込んだ。この頃からスズキの海外戦略が加速。1982年にインド政府が国民車構想のパートナーを選びに来日。スズキが選ばれ、インドに進出。同国のシェア過半数を占めるまでに成長した。

2008年、GMが経営危機に陥り、GMは保有するスズキの株式全ての売却を決定。これを受けて、スズキは自社買取に応じた。

翌2009年、スズキはGMに代わる提携相手をVW(フォルクスワーゲン)と決め、同社と対等な関係での包括的提携を発表。持ち分法の適用となる20%に至らない形での資本提携とした。ところが、VWはスズキへの出資比率を引き上げて持ち分法の適用範囲とする(支配関係で上に立つ)構えを見せる一方、スズキが期待する技術提供を怠った。そこで、スズキは2011年に提携の解消を発表。VWにスズキ株式の返還を要求したが、VMは応じず、訴訟問題となった。

2015年、国際仲裁裁判所はVWが保有するスズキ株式の売却を命じた。これにより、VWは保有するスズキの全株式を手放し、公式に提携解消となった。

■婿養子戦略にも限界が…頓挫した世襲計画

創業者で初代社長の鈴木道雄、2代目社長・鈴木俊三はともに70歳で現役を退いた。2000年、70歳になった鈴木修は、戸田昌男(1935~2007)に5代目社長を譲った。創業者一族以外で初の社長就任である。

後継者には、通産省(現・経済産業省)出身の娘婿・小野浩孝(1955~2007)を念頭に置いていたが、小野はまだ45歳。トヨタ自動車は創業者一族の後継者が若年であると、サラリーマン社長で繋ぎながら、満を持してバトンタッチしている。鈴木修もそのやり方を見倣ったのだろうか。

2003年に津田紘(ひろし)(1945~2020)が6代目社長に就任。2007年12月に小野が膵臓ガンで急死してしまう。翌2008年には津田が健康上の理由で退任。鈴木修は長男・鈴木俊宏(1959~)を小野に代わる後継者に考えていたが、まだ41歳。やむなく自ら社長(7代目)に復帰。会長兼社長となった。

そして、2015年、鈴木修は満を持して長男・鈴木俊宏(1959~、現社長)を8代目社長に指名した。娘婿が死去したので、実の息子を社長にする――婿養子社長が3代続いたスズキの真骨頂といえるのかもしれない。スズキ創業家にとって、これが初めての男系世襲だということは、意外に知られていない。

参考文献
・鈴木修『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞出版社)
・中西孝樹『オサムイズム “小さな巨人”スズキの経営』(日本経済新聞出版社)
・公益財団法人鈴木道雄記念財団ホームページ「鈴木道雄95年の歩み」

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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