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本当は「ベンツ」狙いだったが…苦境に立たされた「日産」が〈カルロス・ゴーン〉を擁する「ルノー」との提携を選んだワケ

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年4月30日 13時0分

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90年代、数々の名車を誕生させつつも経営難に陥った日産は、フランスのルノー社と提携関係を結びます。しかし、日産が本当に提携したかったのはベンツ社だった、と自動車評論家の鈴木均氏は言います。鈴木均氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、90年代の世界の自動車メーカーの経営事情を詳しく見ていきましょう。

ダイムラー・クライスラーの“結婚”と“離婚”

ベンツといえば、自動車を発明したドイツ企業であり、かたやクライスラーは米ビッグ3のなかで、GMやフォードよりも先端技術を貪欲に採用する老舗だ。しかしビッグ3のなかでは最も小さく、日独の輸入車にシェアを奪われ続けた。

84年にミニバンを登場させ、このジャンルを切り拓いたボイジャー(一部は三菱エンジンを搭載)がヒットし、クライスラーは経営を立て直すことができたが、GMはすぐにアストロを登場させ、クライスラーを押しのけて王道に君臨した。

フォードから移籍したアイアコッカの指揮下、クライスラーは87年にAMCを買収してJEEPブランドを手に入れ、順調に思われた。しかし90年代に入って三菱との北米合弁を解消するなど、再び不調に陥った。単独では生き残れない、との判断の下、日産を押しのけ、ベンツと電撃提携した。

98年、乗用車においては世界6位、商用車では世界一のダイムラー・クライスラーが誕生した。ドイツ南部シュトゥットガルトと米ミシガン州オーバーンヒルズにそれぞれ本社を置き、「世紀の結婚」と騒がれた。

ベンツは94年、スイスの時計会社スウォッチとコラボし、98年に二人乗りの超小型車、スマートを登場させていた。一般的な車が路上駐車する際の車幅(2メートル前後)に収まる全長のスマートは、オートバイのように車と車の間に頭を突っ込んで路駐することができ、画期的だった。対抗してトヨタは2008年、ほぼ同じ大きさの4人乗り(!)iQを登場させた。

スマートはかねてより小型車のラインアップがなかったベンツの肝いりだったが、時代を先取りし過ぎたのか、あるいは急旋回中に横転を喫する安全性の問題か、07年まで販売不振で赤字事業だった。リコールの結果、横転はしなくなった。

スマートだけではない。ベンツは97年に同社最小となるAクラスを登場させたが、日独仏伊の小型車よりも車内は狭く、初代はスマートと同様、ダブル・レーン・チェンジ(急ハンドルを切った後、車の姿勢が安定しきれていない内に逆向きに急ハンドルを切る、2連続の回避行動)で横転するクセがあり、リコールとなった。すぐに修正されたが、室内空間の改善は、一回り大きくそっくりな外観のBクラスに託された。

大きなアメ車を得意とするクライスラーの吸収合併が、どれほどベンツの小型車作りに貢献できたのか定かではない。2007年、ベンツはクライスラー株の大半を売却し、「離婚」が成立した。放出されたクライスラーを08年のリーマン・ショックが直撃し、翌年、裁判所に破産法適用を申請した。公的資金が注入されたすえ、今度は伊フィアットの傘下に入った。

合併劇と同1998年、映画『タクシー』が公開されている。フランス人監督リュック・ベッソンがつくったこの作品には、白いプジョー406のタクシーとドイツ系強盗団の赤いベンツ500E2台が登場し、マルセイユの街中でカーチェイスを繰り広げている。独仏ツーリングカー選手権車のバトルだが、『タクシー』は世界の名車100台以上がエキストラとして劇中に登場する、凝った作りの映画だった。

そのなかで筆者が確認できた日本車は、マツダ・ロードスター、ホンダ・アコード、トヨタ・ランドクルーザーだ。2000年公開の第二作には、カルロス・ゴーンにそっくりの仏人将軍、仏ジャック・シラク大統領本人に並び、漆黒の三菱ランエボⅣ(千葉ナンバー)が3台編隊で登場する。

日産がルノーの軍門に下ったワケ

日産Z、スカイラインGT-R、180SXといった名車は、「90年代までに運動性能を世界一にする」ことを目指す日産の取り組み―「901運動」と呼ばれる―が実を結んだものだった。

続いて90年に登場した初代プリメーラは、ヨーロッパで通用するセダンとして開発され、イギリス工場から日本に逆輸入された。901運動は数々の名車を生んだが、国内首位のトヨタを突き上げるほどには、日産の売り上げに貢献しなかった。世界一の運動性能と言われても、車好きではない人はあまり興味がなかったのである。

苦境に陥った日産は座間工場と村山工場を閉鎖したが、状況は改善しなかった。日産ディーゼルをベンツに売却しようとし、あわよくばベンツとの提携を望んだが、すでに紹介したとおり、ベンツは土壇場で米クライスラーを選んでしまった。米フォードには資金があるが、マツダ再建のときと同様、アメリカ人社長を日産に送り込んでくる可能性がある。残るのは、ルノーだけである。

日産はルノーが申し出た金額の倍近い額の出資を要求したが、ルノー(およびフランス政府)は国を挙げてこれを工面した。99年3月、ルノーは日産株36.8%を買収して経営権を握り、社長にカルロス・ゴーンを任命した。現在も続く、ルノー・日産連合の誕生である。ルノーは、かねてより弱かったアジア市場の攻略のため、日産を頼った。日産社員は当初、フランス語を習わされたとの話も聞く。 ※ 日産とルノーは2023年11月8日、資本関係の見直しが完了し、ルノーが保有する日産株式43.4%を15%に引き下げ、相互に15%ずつ出資とし、両社が対等に議決権を行使できる新たなアライアンスへ移行したことを発表した。

ゴーンはレバノン系ブラジル人であり、子供のときにリオデジャネイロからベイルートに家族で移住した。技術者としてエコール・ポリテクニークとパリ国立高等鉱業学校を修了後、ミシュランに就職、欧州各地での生産管理を経て、故郷リオデジャネイロで南米事業の立て直しを任された。わずか二年でこれを終えると、北米ミシュラン社長に就任した。

当人いわく、このときにミシュラン・タイヤを履かせた日産Zに乗っていたのが、日産との縁である。この頃にはすっかり「コスト・カッター」の異名が定着し、91年に民営化したばかりのルノーの合理化のため、96年に副社長に迎えられた。

ゴーンは日産リバイバルプランに基づき、「部品をグローバルに調達する」との掛け声の下、それまでの系列取引を無視し、大ナタを振るった。日産を破産直前からわずか2年で立て直したゴーンを、米『ニューヨーク・タイムズ』紙は「ミスター修理屋」と呼んだ。

徹底したコスト削減と社員のリストラが進むなか、2003年、静かに役割を終えた車があった。日産プレジデント(3代目)である。正確には、03年以降もプレジデント(4代目)は生産・販売された。

しかしそれは「プレジデント」とは名ばかりの、シーマと多くの部品を共用する代物だった。1965年以来続いた日産の旗艦の血統が、3代目プレジデントで途絶えた。「不沈艦」時代の、最後の大将旗だった。そして2010年、姉妹車シーマのモデルチェンジと共に、プレジデントの名前も消えた。

ゴーンはその後、イギリス工場に納品するイギリス製の現地部品をルノー系列にすり替え、コスト削減を終始徹底したため、イギリスと大陸側の諸国の間に亀裂が入った。イギリスのEU離脱の是非を問う2016年6月の国民投票において、工場の立地するサンダーランド選挙区で61%の有権者が「離脱」に票を投じた。

鈴木 均 合同会社未来モビリT研究 代表

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