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「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#27

RKB毎日放送 / 2024年4月16日 16時15分

1948年3月16日。横浜軍事法廷で、石垣島事件でBC級戦犯に問われた元日本兵たちに、判決が宣告された。結果は41人に死刑。弁護人のうち、アメリカ人の女性弁護士は泣き伏したという。この状況を日本人の弁護人はどうみたのか。金井重夫弁護士が意見書を遺していた―。

◆石垣島事件の判決に関する意見

国立公文書館のファイルの中にあった、「石垣島事件の判決関する意見」という文書。名前代わりに「金井」の印鑑が押してある。東京都在住の金井重夫弁護士だ。「日本政府」の文字が入った用紙に書かれている。
(注・わかりにくいところは一部表現を変えた)

◆証拠隠滅は国民全部の共同責任

(石垣島事件の判決関する意見)
昭和20年(1945年)4月半ば頃、石垣島警備隊が、同島を空襲して捕えられた連合軍の飛行機搭乗員3名を逮捕し、その日の夜11時頃、同隊員の手により殺害した。殺害するにあたり、内2名は士官2名が斬首し、他の1名は多数の士官、下士官及び兵が、銃剣で突刺した。それに加えて、終戦後この死体を発掘し火葬に附し、骨を海中に投棄して証拠の隠滅をはかったことは事実であり、この事実が国際法規に違反し非難せられねばならぬものであることについては、何人も異存は無い。我々としては、それを単に関係者のみの責任と考えず、国民全部の共同の責任と考え、被告人と共に深く反省、悔悟している。

石垣島事件では、証拠隠滅のために、戦後になって遺体を掘り起こして燃やした上、海に投棄している。それについて金井弁護士は、「国民全部の共同の責任と考える」と述べ、自らも反省、悔悟している。

◆裁判の型式を借りた報復

(石垣島事件の判決関する意見)
問題は、この犯行が如何なる状況の下に行われたか、何人により提案、決定され、何人によって行われたか。(搭乗員を)殴った者は如何なる事情で、如何なる心意を以て、殴るに至ったのか。又、各関係者の責任の有無程度は、如何であらねばならぬのかという点にある。

本事件の判決は、昭和23年(1948年)3月16日言い渡されたが、それによると、45名(他に1名起訴されているが病気の為分離)うち2名は無罪、2名は重労働(1名20年、1名5年)となったが、他の41名は絞首刑であった。それは無罪者2名を除けば、検察官の主張が全面的に認められ、被告人自身の公判までにおける自由意志に基づく供述、及び、これに基づく弁護人の主張は、全く無視されたことを意味する。

結果から見れば約3ヶ月半に亘る審理は、ほとんど無かったに等しい。我々としては、被告人及びその家族と共に、色々な点でこの裁判には到底納得することができない。それは裁判ではなく、裁判の型式を借りた報復であると考えられてもやむを得ないもので、米軍の軍事裁判の権威及び名誉の為にも十分検討されねばならぬと考える。

◆事実を誤認され、重刑に

金井弁護士は、裁判には到底納得できないとし、「裁判の型式を借りた報復である」と強く非難している。このあとも項目を分けて指摘が続く。

(石垣島事件の判決関する意見)
1,認定について
(イ)実際に於いて、自ら犯行を担当していない者で、犯行者として事実を誤認せられ、重刑に処せられた者が十数名いる。彼らは無実の罪に問われ、家族と共に悲嘆に暮れている。いやしくも裁判である以上、一人でも無実の罪で泣かしてはならない。

◆上官の命令なのに・・・甚だしい誤認

(石垣島事件の判決関する意見)
(ロ)本犯行は、上官の意思が命令の形式で部下に表示、伝達されて行われたものであり、部下はその上官の意思を批判することも、拒むこともできない命令と考え、自己の自由意志に基づかずして、換言すれば教唆に基づき、犯行に加担したものである。然るにこの事実を認定せず、すべての関係者を対等の立場において考え、共通意思を共同して遂行したものと認定している。これは甚だしい誤認であると言わねばならない。

◆彼らの行為の違法性を認識していない

(石垣島事件の判決関する意見)
(ハ)判決は全被告人に犯意があったと認定している。しかし、犯意があるとするには、犯罪事実の認識の外に、その事実の違法性につき、認識がなければならない。少なくともその認識の無いことにつき、過失がなければならない。しかるに被告人の中の大部分は犯行当時においては、彼らの行為の違法性を認識してはいない。かつ、これを認識しないことにつき、過失があるとして責める訳にはいかない。彼らは当時、敵軍を粉々にすることのみを考えており、かつ、国際法に関する知識は持っていなかった。敵軍の構成員を殺害することについて、戦闘中は合法的であるが、生け捕りした後は不法であると区別して考えるに、彼らは余りに無知であった。士官でさえ、即成教育を受けた若年者は俘虜の処理について、何らの教育も受けていなかった事は、彼らの証言する通りである。いわんや被告人中の過半数を占める下士官及び兵において、彼らが戦争末期に召集されたということから、知力の点で劣っていたということを考慮に入れねばならない。更に、「上官の命令は天皇の命令と心得よ」と教育されていた日本軍人は、上官が違法の命令を下すとは絶対に考えてはいなかったのである。以上の如く、被告人は少なくともその大部分に犯意の無かった事は明瞭であって、このことは、終戦後になって、証拠隠滅をした事実のみによって覆すことはできない。

◆日本はジュネーブ条約を「準用」

金井弁護士は、被告人たち、特に下士官や兵らは、捕虜の待遇についてそもそも無知であり、違法性を認識していなかったことを指摘している。

国際条約の「俘虜の待遇に関する条約」は1929年にスイスのジュネーブで調印されたことから、「ジュネーブ条約」と呼ばれているが、日本は批准していなかった。太平洋戦争開戦後、日本と敵国の双方で捕虜が発生するようになると、敵国からジュネーブ条約を適用する意思があるかどうかの照会があり、それに対して日本は1942年、「準用」すると回答した。「準用」とは、必要な修正を加えて適用するという趣旨だったが、戦犯裁判では「準用」は「事実上の適用」と解釈されている。石垣島警備隊にいた多くの兵士たちは、「捕虜を虐待してはならない」ということもつゆ知らず、ついさっきまで空襲され、交戦状態だった米軍機の搭乗員を殺害することが「違法である」などという認識は、全く無かったのである。

ふるさと、福岡から連行される藤中松雄が、家族に「直ぐ帰ってくるから大丈夫」と言ったのも、金井弁護士が指摘している「違法性を認識していなかった」からかもしれない―。
(エピソード28に続く)

*本エピソードは第27話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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