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母1人子1人の少年時代 大叔父の家を出て親類宅を転々とする日々 話の肖像画 落語家・桂文枝<4> 

産経ニュース / 2024年5月4日 10時0分

落語家・桂文枝

《昭和18(1943)年7月16日、堺市で生まれた。銀行員だった父(河村清三(かわむらせいぞう)さん)の顔は知らない。生後約11カ月のときに戦病死したからだ》

母(治子(はるこ)さん)が僕を産んだのは堺の母の叔父さん(※文枝さんの大叔父)の家。父は内地(日本国内)の陸軍にいたのですが、僕が生まれたころには肺結核を患って入院していたそうです。ずっと後になって、テレビの番組に出たことがきっかけで、父が、19年6月15日に、大阪の陸軍病院で亡くなったことを知りました。

母は、父のことをあまり話さなかったし、河村家(父の実家)との交流も途絶えていました。父の写真を初めて見たのもずっと後になってから。細身で黒縁メガネをかけ、生真面目そうで、僕には、あまり似ていないように見えましたねぇ。

母からは「(父は)堅い仕事(銀行員)の、きちっとした人でした。あなたもお父さんを見習ってまじめにやりなさい」といつも聞かされていたのですが、大人になって父の銀行員時代の同僚だった方々と会う機会があり、話を聞くと、だいぶ様子が違う(笑い)。

半ドン(※午前中で終わり)の土曜日や日曜日には、競馬場へ行ったり、お酒を飲みに行ったり。何よりびっくりしたのは父が「落語好き」だったこと。大阪の寄席に通っては週明けの月曜日に様子を同僚らに楽しそうに話していたらしい。

スポーツも得意だったようで、スキーやリュックを背負ってハイキングに行った写真もありました。運動が苦手な僕と、そこはまったく似てません。「落語好き」の血は、受け継いでましたんかいなぁ。

《父親が亡くなった後、母の治子さんは、幼い息子を連れて河村家を出る。以来、「母1人子1人」。ただし、その事情ははっきりしない》

母から聞いていたのは、子供(文枝さん)を(河村家に)取られたくなかったから一緒に家を出たという話。河村の家に対して母は、あまりよく言いませんでした。父方の親類との付き合いが復活したのは、ずっとずっと後の母が亡くなる、ちょっと前のこと。母から聞いていた話とは、だいぶ事情が違いましたけどね(苦笑)。まぁ、母と河村家とが、あまりうまくいっておらず、もめていたことは確かだったようです。

両親の夫婦仲ですか? 良いも悪いも(結婚期間が)みじか過ぎました。見合いで結婚して、すぐ僕を身ごもって、父は戦争にとられて…。病院にも自由に見舞いに行ける時代じゃなかったらしいです。僕と母は23歳違いですから、父が亡くなったとき母はまだ20代半ばの若さ。子供の僕から見ても、スラッとした美人でしたねぇ。

《父の死後、母とともに、産まれた堺の大叔父宅へ身を寄せる。玄関から建物まで距離のある広いお屋敷だった》

母は、その大叔父さんに実の娘のようにかわいがられて育ったらしい。もう戦争末期でしたけど、暮らし向きは悪くなかったようです。僕は叔母と栗拾いをしたり、畑で芋掘りをしたりしていたみたい。空襲があって逃げ込んだ防空壕(ごう)が暗くて恐ろしかったことは何となく記憶に残っているのですが…。

大叔父の家には、幼稚園くらいまでいました。突然、その家を出て転居することになったとき僕は大泣きしたらしい。なぜ、その家を出なくてはならなかったのか? 大叔父が亡くなったこと、その息子さんが復員してきたことなどで、居づらくなったのかもしれません。

《それから、母と2人で暮らしたり、親類宅を転々としたり、の生活が始まる》(聞き手 喜多由浩)

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