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「重力」「遠心力」「真空」などの用語を生み出した江戸の天才通訳を知っているか

集英社オンライン / 2022年5月22日 9時1分

今やノーベル物理学賞を得るに至った日本の天文学。そのルーツは古く、江戸期の天才たちにまでさかのぼる。しかし、彼らの存在は広く知られているとは言い難い――。現代日本を代表する宇宙物理学者の池内了氏の著書『江戸の宇宙論』(集英社新書)では、日本の天文学に多大なる功績を残しながらも、歴史に埋もれてしまった江戸時代後期の在野研究者たちの活躍をたどっている。本記事では、その中で「重力」「遠心力」「真空」など現在も残る物理学用語を数多く生み出した翻訳の達人・志筑忠雄について、同書から一部抜粋、再構成して紹介する。

「わが国物理学の祖」という評価

蘭学研究者の杉本つとむ氏の著作に『長崎通詞』がある。

蘭語の通訳である長崎通詞の起こりから、蘭語の学習法、優れた通詞(阿蘭陀学者)、紅毛学・博言学の達人、語学教育への献身などの項目に分けて、長崎通詞に関連する諸々の事柄がコンパクトにまとめられている。



何人もの有能な長崎通詞の名前が出てくるが、特に本木良永と志筑忠雄(通詞を辞めてから中野柳圃と名乗る)については、その仕事と人となりが詳しく書かれており、杉本氏が強く惹かれた人物であることが窺われる。

同氏は地動説を紹介した本木を「日本のコペルニクス」、ニュートン力学を理解して日本に持ち込んだ志筑を「わが国物理学の祖」と、特別な形容で呼んでおられる。彼ら二人が日本に近代科学のエッセンスを紹介した最初の人物として重要な役割を果たしたことへの最大級の賛辞と言えよう。

長崎通詞は西洋の最先端の科学に日本で最初に接することができる有利さはあるものの、それが本当に重要かどうかを嗅ぎ当てる嗅覚を備えていなければ、ただの通訳で終わってしまう。この二人は、杉本氏の特別な呼称通りの仕事を残したのだが、彼らは科学のセンスだけではなく、日本語についての特別な才能も有していた。

翻訳作業においては、専門用語を新たに発明するとともに、日本にはない概念を明確に表現することが求められたからだ。彼ら二人の才能と努力を高く評価すべきであろう。

日本にはない概念に多くの新用語を与えた

志筑が残した著作物としては、オランダ語の研究書が10種、世界地理・歴史関係書が6種、 天文学・物理学・数学関係の研究書が21種と分類されている(烏井裕美子「志筑忠雄の生涯と業績」、『蘭学のフロンティア 志筑忠雄の世界』所収)。失われた文献もあるようだが、これを見るだけでも彼が文系・理系の両分野に長けていたことがわかる。

ただ生前に出版されたものはなく、彼の仕事はもっぱら写本を通じて蘭学仲間に知られたのである。言っておくべきことは、志筑は翻訳では、達者な語学の知識を基礎にしてしっかり中身を把握しているとともに、「忠雄曰く」とか「忠雄案ずるに」と注釈して、自分の意見や考えを、時には本文以上の長さで付け加えて理解の筋道を示していることだ。

志筑は蘭語・蘭学の「第一人者」であるとともに、翻訳書であっても研究的態度・批判的観点を貫いて自分の意見を述べることを躊躇しなかったのである。

志筑忠雄は文理双方に詳しかったのだが、精力を傾けて取り組んだのが理系分野の著作であったことは確かである。本書に関連するのは、オックスフォード大学教授のジョン・ケールが書いたニュートン力学の教科書、『天文学・物理学入門』のオランダ語訳(1741年刊)を翻訳した『暦象新書』である。

志筑は、ケプラーの法則やニュートンの運動の3法則と万有引力の法則を数学的に理解した上で、引力・求心力・遠心力・重力・分子など多くの物理用語を生み出した。「真空」を近代科学用語として使い始めたのも志筑であった。

このように、彼は西洋で使われていて日本(あるいは中国を含め東洋)にはない概念や抽象名詞について、新用語を数多く案出して日本語(のみならず、科学の内容や科学思想)を豊かにしたのである。

また、先に述べたように、ケールの著作が明示的でなく簡単に理解できない部分については、「忠雄曰く」として、自分の考えや解釈を述べて補っており、翻訳というより志筑忠雄のオリジナルな著作と言ってよい部分が多くある。彼の業績は今やほとんど忘れ去られているが、少なくとも日本で最初にニュートン力学を受容し紹介したという点は記憶されるべきで、日本の物理学史の重要人物なのである。

江戸時代に世界水準の宇宙観を提示していた

彼は天動説・地動説という言葉を発明した。

西洋では地球・太陽のいずれが宇宙の中心にあるかに着目して、それぞれを地球中心説・太陽中心説と呼んでいた。空間の唯一の点である中心を地球あるいは太陽のいずれが占めるかを示すのだから、絶対的な視点からの呼称である。

これに対し、志筑の天動説・地動説という呼称では、どちらが動いているかを表しているだけだから、優劣がつかない相対的な視点と言っていいだろう。一神教の西洋では、中心を占めて動かない絶対神の位置を重視するのに対し、絶対的な神を持たず八百万の神が遍在する東洋では、どちらが動いているかに着目していると言えようか。西洋と東洋の視点の差異として興味深い。

後に述べるように、よく読めば志筑は地動説に旗を上げているのだが、それでは幕府や当時の人々の常識である儒教思想に基づく天動説に歯向かうことになるので、トーンを弱めて曖昧な表現に終始している。「此にて動とすれば彼にては静とし、此にて静とすれば彼にては動とす」というふうに、地球と太陽の座標変換の問題に過ぎないのだから、天動・地動の是非は論じられないとしたのである。

太陽系のみに限定して見る限りでは天動・地動のいずれでも同等であるのだが、さらに大きな宇宙の場で考えると地動説が正しい。宇宙全体を俯瞰すれば、不動の恒星が点々と宇宙空間に散らばり、その周辺を惑星が回っているという描像、つまり地動説の立場にならざるを得ないからだ。そのことを知りながら志筑はあえて述べなかったのであろうが、やはりより大きな観点からの議論を展開して欲しかったとは思う。

一方で、『暦象新書』の最後(下編巻之下)に所載されている「混沌分判図説」が面白い。これはケールの原本にはないもので、志筑忠雄のオリジナルな所論がそのまま提示されている。

宇宙の構造は永遠のものではなく、始まりがあり、時間とともに形が変化していくという見地から、具体的には、何ら実体がない「混沌」の状態から、恒星や惑星や衛星や隕石など諸々の天体に「分判」する(分かれていく、分裂する)過程の試論を提示しているのだ。いわば天体進化論・宇宙の構造形成論の試みと言える。

志筑の「混沌分判図説」で解説されている宇宙の形成過程のイメージ図

この課題は、まさに現在の宇宙論で議論している、ビッグバン後の宇宙における銀河や初代の星形成の問題と基本的に同じである。志筑は太陽系の形成の問題を純粋な力学概念だけで説明しようとしたと言ってよいだろう。

これは生成・進化する宇宙観を提示しようとしたという意味で、カント・ラプラスに匹敵する先進的な業績と言える。

というのは、カントの星雲説(太陽系を作った星雲は、初めはゆっくり回転するガスの塊なのだが、収縮するとともに回転を速めつつ、中心の太陽と周囲の惑星を形成していく過程を論じた世界最初の太陽系形成のモデル)は1755年、それをより精密にしたラプラスのモデルが1796年であるのに対して、志筑が太陽系形成論に関する「混沌分判図説」を構想したのは1793年のようで、ラプラスより早いのである。しかも完全に独立した独自のアイデアに基づいているからだ。

むろん、志筑のニュートン力学全般の把握には限界があり(例えば、角運動量保存則を知らなかった)、カント・ラプラス説に比べれば不十分なところが見受けられるが、科学的土壌が希薄な日本であるにもかかわらず、ここまで考察を深めた内容を提示できたことは称賛に値するのではないだろうか。

写真/shutterstock 図版制作/MOTHER

江戸の宇宙論

池内 了

2022年3月17日発売

1,034円(税込)

新書判/320ページ

ISBN:

978-4-08-721206-8

19世紀初頭、実は日本の天文学は驚くべき水準に達していた――。
知られざる「天才」たちの活躍を通して、江戸の科学史の側面を描いた画期的一冊!

今日ではノーベル物理学賞を獲得する水準に至った日本の天文学研究。
そのルーツを辿ると、江戸時代後期の「天才たち」の功績にまで遡る。
「重力」「遠心力」「真空」など現在でも残る数多の用語を生み出した翻訳の達人・志筑忠雄。
「無限の広がりを持つ宇宙」の姿を想像し、宇宙人の存在さえ予言した豪商の番頭・山片蟠桃。そして超一流の絵師でありながら天文学にも熱中し、人々に地動説などを紹介した司馬江漢。彼らはそれぞれ長崎通詞(オランダ語の通訳者)・豪商の番頭・画家という本業を持ちつつ、好奇心の赴くままに宇宙に思いを馳せたのであった。
本書は現代日本を代表する宇宙物理学者が、江戸時代後期を生きた知られざる天才たちとその周辺人物らによる破天荒な活躍を負いつつ、日本の天文学のルーツに迫った驚きの科学史である。

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