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福永祐一調教師が振り返る「巨大なプレッシャーが襲いかかった‟あのダービー”」

日刊SPA! / 2024年5月26日 8時25分

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写真/橋本健

 現役時代に「天才」と呼ばれた元騎手の父・福永洋一が成し遂げられなかったダービー制覇を実現した福永祐一氏。20年にコントレイルで無敗のクラシック三冠を達成。23年にまさに全盛期での引退し調教師への転身を決断。自身の厩舎を開業してセカンドキャリアをスタートさせる。
(本記事は、福永祐一著『俯瞰する力 自分と向き合い進化し続けた27年間の記録』より抜粋したものです)

◆偶然がもたらしたキングヘイローとの出会い

 27年間の現役生活中に行われた日本ダービーは28回。引退して改めて気づいたのは、28回中23回もその舞台に立てたという光栄な事実だった。毎年、ダービーの舞台に駒を進められるのは、選ばれし18頭と18人。そこに名を連ねることすら難しいのに、23回も依頼をもらえたこと、そしてあのダービー特有の東京競馬場の雰囲気をターフから23回も味わえたこと。それ一つを取っても、本当に幸せなジョッキー生活だったと思う。

 初めて先頭でゴール板を駆け抜けたのは、19回目のダービーで、ワグネリアンに騎乗した2018年のことだった。あの勝利には“初めて味わう感情”“初めて経験した時間”、そしてそれまでのジョッキー人生における一番の喜びと感動が詰まっていた。

 一番の緊張、一番の絶望、そして一番の感動──。思い起こせば、自分にいくつもの“一番”を経験させてくれた舞台、それがダービーだった。

 始まりはデビュー3年目の1998年。前年9月のある日、坂口正大厩舎におじゃましていると、坂口先生のもとに一本の電話があった。その後、「(武)豊が乗れなくなったらしい」というような先生の声が聞こえてきた。そして、たまたま居合わせた自分は、先生からこう言われた。

「君、乗るか?」

 そのとき、豊さんが乗れなくなった馬こそキングヘイロー。そんな偶然がすべての始まりだった。

◆ダービーまでの1週間は取材に追われる日々

 10月の京都でデビューすると、新馬戦、黄菊賞、東京スポーツ杯3歳Sと3連勝。それまでにも良い馬の背中は味わっていたが、キングヘイローの背中は、それらどの馬とも違った。「やっぱり豊さんに依頼がいくような馬は違う」と思ったものだ。

 その後、ラジオたんぱ杯3歳Sで2着、弥生賞3着から、クラシック第一弾である皐月賞へ。当時の自分はデビュー3年目にして、すでに上位人気馬で何度かGⅠに出走していたが、不思議なことにまったく緊張することはなかった。

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