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“生理の貧困”にタンザニアで立ち向かう28歳の日本人女性。ナプキン工場の資金難や嫌がらせを乗り越えて

日刊SPA! / 2024年7月4日 15時52分

「妊娠がわかった時は、どこで中絶できるのだろうということをまず考えました」

中絶しないでほしいというウィリアムさんの説得に対しても「産めないものは産めない」とはっきり伝えた。ところがこの時、タンザニアでは容易に中絶ができないことを知った。

タンザニアにも中絶手術を請け負う闇医者がいたが、二度と子どもが産めない身体になったり、ひん死の状態になったケースを聞いて怖くなった菊池さん。そこで、ビザ更新のため訪れた隣国のウガンダで、タンザニアでは購入できない中絶薬を入手した。しかし、ウィリアムさんの涙ながらの説得もあり、タンザニアではその薬を飲む決心がつかなかった。

◆中絶か。シングルマザーか

日本に帰国したのは、お腹の子どもが12週目の頃。中絶以外の選択肢を考えていなかった菊池さんの心を変えたのは、病院で見たエコー写真だった。おなかの中に宿る命を初めて自分の目で見た時に、「産まない」という固い決意が揺れた。

「父親にも全力で止められました。『シングルマザーになったら生活に苦労する。そんな崖っぷちに向かおうとしている娘を止めない親などいない』と」

産んでも産まなくても後悔があると考えた菊池さん。どちらの後悔なら、残りの人生でも背負って生きていけるだろうかと考えて、産むことを決めた。

「青年海外協力隊という夢は諦めないといけないけれど、夢の先にある志は『国際協力』でした。それなら子どもがいてもできるのでは、と気づいたんです」

親や周りの友達の強い反対を押し切って出産をした菊池さんは、父親であるウィリアムさんをタンザニアに残したまま日本でシングルマザーとなった。

2020年に幼子を抱えたまま、新卒でボーダレス・ジャパンに入社。この会社は、社会問題に取り組む社会起業家を育成し、事業運営の資金サポートも行っている。最初の1年間、現場で経営を学ぶために再生エネルギー供給事業や技能実習生向けの日本語教育事業の立ち上げに関わった。この時に勤務先が福岡となった菊池さんは、この生活で改めてシングルマザーの苦しさを身をもって体験する。神奈川の実家を出て両親のサポートなしで、当時2歳の息子と2人暮らしをスタートさせた菊池さんは、生活に困るほどの経済状態に陥ったこともあった。

目の前の仕事に追われながら、頭のなかにあったのはタンザニアで出会ったシングルマザーのことだった。国の支援制度に頼らざるを得ないほど困窮した時期もあったが、それでも日本でシングルマザーとなった自分の守られた環境は、同じ境遇のタンザニアの女性たちと比べてあまりにもかけ離れていると気づいたのだ。

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