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「真田信繁」家康に自刃を覚悟させた日本一の兵 49歳でようやく満天下に力を示し散った義の知将

東洋経済オンライン / 2023年12月3日 10時0分

実際、真田家だけではなく、豊臣水軍の大将だった九鬼家も、父・嘉隆は西軍、息子・守隆は東軍について家名の存続をはかっています。

信繁は、父・昌幸とともに上田城で徳川秀忠の大軍と戦い足止めに成功しました(第二次上田合戦)。しかし関ヶ原で三成が敗れたため、所領を没収され九度山に蟄居することに。このとき信繁は33歳で、本来は死罪になるところを兄・信之の陳情により減刑されました。

ちなみに九鬼家も守隆の嘆願で父・嘉隆の死罪は減刑されましたが、その連絡が遅れ、嘉隆は自刃しました。

そして信繁が再び世に出るまでに、14年もの月日が流れます。父・昌幸は3年前に亡くなっていました。

十数年過ごした九度山における信繁は、地域の人々と積極的に交わって狩りを行い、夜は兵書を読み耽り、父・昌幸からも兵法を学ぶなど、来るべき日に向けて準備を怠らなかったようです。

兄・信之は、弟・信繁を「辛抱強く物静かな男」と評しており、不遇の中でも自暴自棄に陥ることなく、やるべきことを淡々と行う知将の風格を感じさせます。

大坂冬の陣で鮮烈な印象を残す

大坂城に入城した信繁でしたが、その評価は当初は微妙だったようです。

徳川と戦って2度も勝利を経験したとはいえ、その評価は父・昌幸のものであり、息子の信繁の実力は知られていませんでした。

むしろ兄・信之が徳川方にいることもあり、寝返りを警戒されるありさまだったようです。信繁は籠城ではなく、瀬田で幕府軍を迎え撃つ策を立てます。この策は後藤又兵衛らの浪人衆には支持されますが、大野治長ら豊臣家の重臣たちには否定されました。

もしも、この策を昌幸が献策していたら、あるいは受け入れられたかもしません。しかし実績のない信繁の発案では見向きもされませんでした。しかしながら籠城と決したあとも、信繁は腐らず、大坂城の唯一の弱点とされる玉造口に「真田丸」という出城をつくります。

そして、いよいよ開戦となると、この真田丸で幕府方を散々に打ち破りました。この戦で、ついに満天下に真田信繁という逸材の存在を見せつけます。信繁は、すでに50歳間近でした。いわゆる大坂冬の陣での出来事です。

しかし皮肉なことに、信繁を評価したのは味方ではありませんでした。最も高く評価したのは徳川家康です。家康は本多正純に命じ、信繁の叔父にあたる真田信尹を使者に信州10万石を条件に寝返ることを勧めます。

しかし信繁は、この誘いを断りました。このとき大坂城は和睦の条件だった外堀だけでなく内堀も埋められています。大坂城が誇った高い防御力は霧消し、信繁が築いた真田丸も破却されていました。

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