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「真田信繁」家康に自刃を覚悟させた日本一の兵 49歳でようやく満天下に力を示し散った義の知将

東洋経済オンライン / 2023年12月3日 10時0分

もはや勝敗は決しており、信繁としては今一度、おのれの才を天下に知らしめる、そのことに魅力を感じたのでしょう。こうして1615年、大坂夏の陣が始まります。

勝ち目のない戦いに挑む信繁

籠城できない大坂方は野戦での勝負に出ました。道明寺の戦いでは、信繁は先行する後藤又兵衛隊の後を追って参戦しますが、濃霧のため行路を誤り、着陣が遅れてしまいます。その間に又兵衛が討ち死にしたため、大坂方が撤退を余儀なくされました。

このとき信繁は殿(しんがり)をつとめ、伊達政宗隊を撃破します。信繁が、籠城だけでなく野戦でも無類の強さを発揮した瞬間でした。このとき信繁の残した言葉が

「関東勢百万といえども男はひとりもおらず」

よほど印象的だったのか、これは広く後世にまで伝わります。

翌日、信繁は最期の決戦を挑みます。信繁は、最後の切り札と考えた豊臣秀頼の出馬にかけていました。しかしながら結局、秀頼の出馬はありませんでした。それでも信繁は、おのれの才のすべてをかけて策を練ります。

大野治房、明石全登、毛利勝永とともに出撃した信繁は、家康本陣を目指しました。このときの激しさは、やすやすと松平忠直の大軍を突破し、徳川の旗本を撃破し、2度にわたり家康の本陣に突入するほどのものでした。

家康の馬印が押し倒されたのは、武田信玄に蹂躙された三方ヶ原の戦い以来のこと。家康自身、自害を覚悟するほど強烈なものでした。しかし時間の経過とともに態勢を整えた幕府軍に包囲され、真田隊は瓦解。信繁も討ち死にします。

享年49歳。論語にある「五十にして天命を知る」を目前にしての幕切れでした。

信繁、伝説となる

信繁の戦いは敵である幕府軍から賞賛されます。島津忠恒は

「真田は日本一の兵(つわもの)」

とし、

細川忠興は

「左衛門佐は合戦場で討ち死に。古今なき大手柄なり」

と。

黒田長政は、大坂夏の陣の図屏風を描かせ、その中で信繁の勇猛果敢な姿を配し、その戦いぶりを評しました。

いずれも戦国時代を生き抜いた歴戦の強者たちです。家康を含め幕府は、信繁への賞賛を禁じるようなことはありませんでした。

真田に何度も不覚をとった徳川が、それを正当化するために、あえて信繁を名将に仕立てたという説もあります。

しかし、もはや戦国時代も遠い昔になりかけていたこのころに、幕府に屈し、家を守るために己の野心を捨て生きざるをえなかった武将たちの目に、己が才を存分に発揮し、そのためだけに命をかけた信繁を羨み、輝いて見えたのではないかと私は思います。

そして、家康もまた、そのひとりだったのではないでしょうか。

眞邊 明人:脚本家、演出家

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