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徳川と激突「大坂夏の陣」豊臣軍の"壮絶な最期" 勝利のために最期まで戦った豊臣家の家臣たち

東洋経済オンライン / 2023年12月9日 7時30分

敗戦したものの、奮闘した豊臣方(大坂方)。写真は大坂城(写真: LOCO /PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は徳川方が勝利した大坂夏の陣での、豊臣方(大坂方)の奮闘ぶりを解説する。

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慶長20年(1615)、徳川方と豊臣方(大坂方)との間に大坂夏の陣が勃発した。同年5月5日、徳川家康は二条城から、河内方面に向かう。徳川秀忠も伏見城から出発した。

【写真】大坂方の後藤又兵衛所用と伝わる甲冑

その夜、家康は星田(大阪府交野市)に、秀忠は砂(大阪府四條畷市)に陣を敷いた。これら河内方面軍の軍勢は約12万と言われている。また、家康の6男・松平忠輝らは大和方面軍3万5000を率いていた。

山地を利用し攻撃を試みる大坂方

そうした状況のなかで、大坂方は軍議を開き、後藤又兵衛が徳川方の陣容が整う前に叩き潰すことを提案した。後藤又兵衛の主張に、真田信繁・木村重成・薄田兼相らも賛同し、道明寺(大阪府藤井寺市)付近で迎撃することになった。

大坂城はすでに堀を埋められており、敵を防ぐことはできない。一方で平原での戦では、老練な家康を破るのは困難だ。そのため、山地の狭い場所を利用すれば勝利することができるのではないかとの考えだった。道明寺付近は、南北から山が迫り、平野はほとんどない。後藤又兵衛の建策に打ってつけの場所である。

5月6日、先発した後藤軍は藤井寺で後続部隊を待った。ところが後続部隊が追いついてこなかったため、後藤又兵衛たちは先に道明寺まで進み、小松山(国分の西方)で敵を迎え撃つことにした。

一方で国分(大阪府・柏原市)には徳川の軍勢約3000が敷かれた。この軍勢の後には、本多忠政軍約5000、松平忠明軍約4000、伊達政宗軍約1万、松平忠輝軍約1万が控えていた。

このとき、徳川方の先陣となったのは、水野勝成(三河国刈谷の水野忠重の嫡男。刈谷城主)だ。水野勝成は、小松山を占拠している後藤軍を攻撃した。

戦いは午前4時頃から始まった。最初は後藤軍が有利に戦を展開したようだったが、時が経つにつれ、徳川方の後続部隊が続々と到着し、後藤軍は劣勢に追いこまれた。

後続部隊を待たずに進んだこともあり、後藤軍は小松山で孤立してしまった。

徳川方から三方より攻撃されることになった後藤軍。もはやこれまでと意を決した後藤又兵衛は、平地にて最後の戦いに挑む。

だが、多勢に無勢。後藤又兵衛は奮戦したものの、鉄砲弾に当たり、負傷した。最終的には戦うことができなくなり、従兵に首を打たせた。

大坂方の敗北が続いた

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