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徳川と激突「大坂夏の陣」豊臣軍の"壮絶な最期" 勝利のために最期まで戦った豊臣家の家臣たち

東洋経済オンライン / 2023年12月9日 7時30分

後藤軍は逃げることなく戦う者もいたため、正午に迫っても戦いは続いた。

後藤軍の中には、小松山付近の石川に逃れ、薄田兼相率いる軍と共に戦う者もいた。薄田軍は、大坂冬の陣において、遊女屋で寝てしまい、戦に間に合わなかったという失態を犯したため、名誉挽回しなければとの思いが強かったようだ。

薄田兼相は、3尺3寸の太刀で、徳川方の軍勢と戦った。薄田兼相は身長が高く、先頭に出て戦ったことで敵に狙われたものの、敵を斬り殺して奮戦した。

とは言え、敵との兵力差はどうすることもできず、最終的には薄田兼相も討ち取られてしまう。敗北した大坂方は誉田方面に退いていった。

真田信繁などの大坂方は、道明寺の戦いで敗れた部隊と合流した後、誉田に向けて進撃し、伊達政宗軍との戦闘に入った。

槍を持って突撃してくる真田軍に押された伊達軍は、道明寺まで後退したものの、松平忠輝らの軍勢が到着して兵力が増えた。一方で大野治長の軍勢が到着して、大坂方も兵力が増強された。

そうした最中、大坂城から8キロほど離れた若江でも戦いが起きようとしていた。大坂方の木村重成らが、家康・秀忠軍を迎え撃とうとしていたのだ。

木村重成率いる軍勢は、約4700。午前5時には若江に到着した。木村重成の軍勢が若江に陣を敷いたことを知った徳川方は、藤堂高虎が率いる部隊を出して攻撃した。

最初は木村軍が優勢で、藤堂隊の先鋒・藤堂良勝を討ち取るほどであった。この戦果を受け、城に引き上げたほうがよいのではとの意見もあったが「いまだ家康・秀忠の首級を挙げず」とし、木村重成はその場にとどまる決意をした。

だが、そうこうしているうちに、徳川方の井伊直孝の軍勢(約6000)も援軍として現れた。

井伊の先鋒軍は1000人だったが、撃退されてしまった。怒った井伊直孝は、自ら軍勢を率いて戦に臨んだため、木村軍はしだいに押されていく。木村重成は、自ら槍をとり、突撃して果てた。

河内平野の八尾でも、戦いは展開された。大坂方の長宗我部盛親軍が道明寺へ南下する家康・秀忠軍を攻撃しようとしたのだ。

八尾に大坂方が展開していることを知った藤堂高虎は、部隊を進め、長宗我部軍を攻撃させた。

退却を決意する大坂方

一方の長宗我部軍には鉄砲隊がなかったが、藤堂軍に攻撃を仕掛け、敵兵200人を討ち取り、藤堂軍の先鋒部隊は敗走した。この勢いに乗ろうとする長宗我部軍だったが、そこに若江における木村重成軍の敗北が伝わってきた。長宗我部盛親は退却しようとするが、藤堂軍が攻勢に出て戦果を挙げた。

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