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嫌われ者でも「家康の信頼は絶大」ある男の最期 「徳川家康の最期」を見送ったある武将とは

東洋経済オンライン / 2023年12月17日 9時30分

一向一揆で裏切り、家臣団からの評判はよくなかったある武将。一方で家康からは絶大な信頼を得ていた。写真は三河三ヶ寺本證寺(写真:ブルーインパルス / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第52回は家康を支えた家臣団の最期を紹介する。

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ついに天下人となった家康

戦乱の世にピリオドを打ち、江戸幕府を開いた徳川家康。「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」で豊臣家を亡ぼすと、名実ともに天下人となり、265年間も続く泰平の世の基礎を築くことになる。

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天下人への道のりは平坦ではなく、様々な危機が家康を襲った。なかでも「家康三大危機」と言われている「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」では命を落としてもおかしくはなかった。

三河一向一揆では、家康が一向宗徒に対して、強硬な手段をとったことで、家臣団が分裂。内部崩壊のピンチを招いた。

次の三方ヶ原の戦いでは、甲斐の武田信玄に惨敗。家康が家臣たちの忠告を聞かず、信玄の挑発に乗って浜松城から脱して、信玄軍の背後を突こうとしたところ、返り討ちにされてしまった。

3つ目の伊賀越えでは、織田信長がいきなり重臣の明智光秀に討たれるという「本能寺の変」によって、家康らは明智軍や落ち武者狩りに狙われることに。一度は自決さえ考えたが、協力者たちの力添えを得て、険しい山道を越える伊賀越えを成功させている。

いずれの危機も、家臣の存在がポイントとなっている。味方につけると頼もしいが、ないがしろにすると、危機的な状況に陥ってしまう。それが家臣というものである。家康は祖父も父も、家臣によって殺されていることからも、そう実感したに違いない。

三方ヶ原の戦いでの敗戦後は、たびたび「宝の中の宝というは人材に如くはなし」と口にしたともいわれる家康。豊臣秀吉が太閤だった頃、「宝物は何か」と尋ねられたことがあった。このときの家康の返答は語り草となっている。

「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。しかし、私のために命を賭けてくれる武士が500騎ほど配下におります。この侍たちを何にもかえがたい宝と思って、いつも秘蔵しています。」

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