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台湾・民進党勝利の陰で逝去した民主革命家の人生 台湾民主化に命を懸けて闘った施明徳さんの人生

東洋経済オンライン / 2024年1月22日 8時0分

一度会っただけの外国人のことは覚えていないだろうと思い、おそるおそる施明徳さんにあいさつをした。だが彼は、私に満面の笑みで応えてくれた。その楽観的な笑顔に、長年投獄された悲壮感は微塵も感じられなかった。

残念なことに、私はこれを最後に施明徳さんには会っていない。いつかまた話を聞きたいと思いながら、そのままにしていたことが悔やまれる。時が過ぎ、そして施明徳さんはこの世を去ってしまった。

施明徳さんの人物をもう少し追いかけてみよう。彼は日本植民地時代の1941年、台湾南部の高雄で生まれた。名前の「明徳」の日本語読みである「アキノリ」から、「ノリ」というニックネームで呼ばれていた。

1945年、日本の敗戦で中華民国の統治下に移った台湾では、国民党による専制政治が敷かれた。1947年に発生した国民党による台湾住民を虐殺した二・二八事件、それに続く「白色テロ」と呼ばれる政治的弾圧が続き、長期にわたる戒厳令下で言論の自由は奪われた。

こうした中で施明徳さんは陸軍軍官学校に学び、軍人となる。「武装蜂起で国民党政権を倒すためだった」と、本人は後に話している。1962年、22歳で少尉として金門島で服務中「台湾独立聯盟事件」で逮捕され、反乱罪で無期懲役の判決を受ける。

「美麗党事件」のリーダー

1975年に蒋介石総統が死去し、それにともなう恩赦で減刑され1977年に釈放される。釈放後、ただちに「党外運動」と呼ばれる反国民党運動に参加し、反国民党運動の人々が結集した「美麗島」雑誌社の総経理(社長)となる。

そして1979年、その「美麗島」雑誌社が高雄市で主催した集会が、軍・警察と衝突して鎮圧を受けることになる。台湾の民主化の過程で最も重要とされる事件「美麗島事件」だ。この事件は台湾社会に大きな影を落とし、国民党政権に反対することは危険だと庶民は恐れるようになる。

この集会で総指揮を務めた施明徳さんは、事件の首謀者として指名手配される。手術で顔まで変えて逃れようとした逃亡劇は有名だ。しかし最後には逮捕され、軍事法廷で再び無期懲役の判決を受ける。

この美麗島事件に連座した人たちや、この裁判で彼らの弁護を引き受けた弁護士たちはその後、初期の民進党の中核を担うことになる。

施明徳さんは冒頭で述べたように李登輝総統の就任に合わせて釈放され、反国民党運動を結集した民進党に合流し、やがて主席を務めることになる。施明徳さんが服役していた間に民進党が結成され、38年間の長きに及んだ戒厳令も1987年に解除されていた。時代の雰囲気は大きく変わっていた。

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