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「ツンデレな道綱母」が藤原兼家にした嫌がらせ バカにされても大納言にまで出世した藤原道綱

東洋経済オンライン / 2024年3月31日 7時20分

藤原道綱の母ともゆかりがある、奈良県の長谷寺(写真: kazukiatuko / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第13回は、藤原道長の異母兄弟である道綱と、道綱の母のエピソードを紹介する。

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「一夫多妻制」とは言えなかった平安時代

「それは私を北の方にしてくれるってこと?」

【写真】京都御所にある清涼殿。花山天皇の出家の際に、道綱と道隆は清涼殿にある三種の神器を皇太子の居所である凝花舎に移した。

NHK大河ドラマ「光る君へ」では、主人公のまひろ(紫式部)が藤原道長から「妻になってほしい」と求愛されて、こう問い返したことが話題となった。北の方とは、正妻のことだ。

当然、まひろの身分では、右大臣の息子、いや、今や摂政の息子となった道長の正妻になるのは難しい。無言の道長に「妾になれってこと?」と問い返して「そうだ」と返されると、悲嘆に暮れたまひろは道長を拒否。道長もまた無理難題をいうまひろに苛立ちながら、その場を立ち去った――。

言うまでもなく、2人のやりとりはフィクションである。もっとも、紫式部が道長の妾だったという説は昔からあり、珍しいものではない。また、道長と式部は歌を詠み合う仲だったことは確かだ。だが、恋愛関係にあったという裏づけはない。

ただ、まひろが「北の方に……」と無理を言った気持ちはわからなくもない。平安時代、男性は妻以外にも妾を持つことが珍しくなかったので、「一夫多妻制だった」と誤解されることもあるが、正妻と妾ではまるで立場が違った。

男は正妻とのみともに暮らすのが一般的で、妾のもとにはひたすら通うのみ。愛が尽きれば、足が遠のき、妾はみじめな思いをするのだから、まひろとしても、抵抗があったのだろう。

「一夫多妻制」というワードからイメージされるような、多くの妻がフラットな状態にあるわけではまったくなかったのである。

なんとかして、夫を自分に振り向かせたい。そう考えるあまりに、逆に冷たくしてしまう妾もいたようだ。いわゆる「ツンデレ」である。『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱の母がまさにそうだった。

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