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華厳滝で投身、明治期の学生の絶筆が与えた衝撃 絶筆「巌頭之感」は今も絵葉書で売られている

東洋経済オンライン / 2024年5月11日 11時10分

華厳滝と「巌頭之感」(筆者撮影)

OSINT(オープンソースインテリジェンス)が注目される昨今、人生の終わりに触れられるオープンソースも存在する。情報があふれて埋もれやすい現在において、個人の物語を拾い上げて詳細を読み込んでいく。

【写真を見る】「巌頭之感」絵はがき

華厳滝の滝口に刻まれた「巌頭之感」

自ら命を絶つときに書いた絶筆の写真が単独の商品として広く流通したのは、筆者が調べた限り、日本では藤村操(ふじむらみさお)の「巌頭之感」が最初だ。

16歳の藤村が日光の名瀑・華厳滝に身を投げた日は1903年5月22日。飛び級で旧制中学を卒業し、東京帝国大学の予備門から独立した第一高等学校(旧制一高)に入学して8カ月後のことだった。

若きエリートが名瀑で命を絶ったというインパクトを何倍にも補強したのが、この巌頭之感だ。

150文字弱の絶筆は滝口に伸びたミズナラの大木の幹を削って墨書きされており、その全文が複数のメディアに載ったことで、彼の死は現在にいたるまで特別なものとなった。漢字表記を現代風に改めるとこう書かれていた。

<巖頭之感
 悠々たるかな天壤、遼々たるかな古今、五尺の小躯を以てこの大をはからむとす。
 ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチィーを値するものぞ。
 萬有の真相は唯だ一言にしてつくす、曰く「不可解」
 我この恨を懷いて煩悶 終に死を決するに至る。
 既に巖頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。
 はじめて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。>

藤村の晩年の行動や学友が残した手記などを丹念に追いかけた猪股忠氏は、自殺の背景には学業に対するモチベーションの低下や成績不振からくる落第の焦りがあったとみている(『追跡 藤村操』)。しかし、そうした個人レベルの悩みはこの絶筆を前に隅に押しやられ、「藤村操は哲学的に死んだ」というヒロイックなストーリーが定着してしまった。

この絶筆が誰かの創作物、あるいは脚色されたものだと疑う人がいないのは、写真という決定的な証拠が残されているからだ。そしてその写真は絵はがきというかたちで流通し、多くの人の目に焼き付いていった。

自殺した人の絶筆が商品となり、120年後の現在はオープンソースの資料にもなっている。いまの常識では相当起きにくいプロセスを辿ったことは間違いない。一方で、もう少し時代が早ければ、商品化されなかった可能性が高い。そんなレアな存在である「巌頭之感」の背景には何があったのか。

絵はがきブームの草分け

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