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「気分を害したら申し訳ない」はなぜダメなのか? 謝るときの不快感を乗り越えて正しく謝る方法

東洋経済オンライン / 2024年5月19日 17時0分

もう1つ、誠実さに欠ける典型的な謝罪がある(ヨーホーもそのバリエーションを採用した)。

「気分を害したら申し訳ない」という決まり文句だ。もちろん、これは謝罪よりも非難に近い。裏を返せば、「私は何も悪いことをしていない」と「あなたは頭が悪いから、私が悪いことをしたと思って動揺している。あなたがそれほど頭が悪くて残念だ」を同時に言っているも同然である。

謝罪は悪い行為を帳消しにするわけではないが、心の底から誠実に気持ちを伝えれば、傷を癒やすのに役立つ。逆に、自己保身に走ったり、言葉をにごしたり、誠実さに欠ければ、なんの意味もない。心から許しを請う言葉でなければ。

一対一の謝罪に対する抵抗感は、組織や政府の謝罪という大きな領域にも持ち越される。

第2次世界大戦中の日系アメリカ人の抑留、奴隷制、ネイティブ・アメリカンの虐殺など、国家規模の過去の惨劇に対する国の謝罪を求める者は、昔から一定の周期で現れる。

それに対する反論は、「大昔の話だ。すんでしまったことはしかたがない。忘れるんだ」というものだ。

この主張は……、何かが足りないような気がする。国家の罪には、たとえ大昔の出来事であっても国家の謝罪が必要だ。そうした謝罪は、シンプルな宣言の形をとることもあれば、もっとよいのは、宣言に加えて、被害者の子孫に対する具体的な補償が盛りこまれているものだ。何はともあれ、はじめの一歩は悪い行為を認めることである。

1992年、教皇ヨハネ・パウロ2世が先任者を代表して、カトリック教会の犯した過ちを謝罪した。注目すべきは、謝った相手がガリレオ・ガリレイで、その過ちが犯されたのは1633年のことだった。

ガリレオは、地球が太陽の周りを回ると考えるコペルニクスの地動説を支持し、そのせいで異端者と呼ばれ、教会は投獄や死刑など、ありとあらゆる手段で彼を脅した。最終的に、彼の名声のおかげで、数々の発見を撤回することを条件に軟禁に減刑された。

それから約360年後、ヨハネ・パウロ2世は「我々の過ち」という表現を用いた。カトリック教会は当時の情報に基づいて判断しただけだと述べたが、とにかく謝罪した。

それが肝心だ。教皇は過去の過ちを公表することに決めた。公共機関がそうするときには、自分たちも誤りを犯し、不当に扱った相手に対して負い目があることをきっぱりと宣言する。教皇が謝らずに、「我々は何もしていない、歴史家が間違っている。教会は多くの慈善事業も行ってきた。我々は神への信仰を謝罪しない」と断言したら、それは謝罪ではなく……、言わなくてもわかるだろう。人間は、失敗をしたら謝るべきだ。それは政治家でも、宗教団体でも、国家でも変わらない。謝罪は大事だ。

生きていれば人を傷つけることは避けられない

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