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「国土防衛に強い執念」持つイスラエル、驚愕の歴史 根源にあるのは「自由への長い苦難の道」

東洋経済オンライン / 2024年7月10日 21時0分

ヴェニスはゲットオ・ヌオヴォ――新精錬所――とユダヤ人の強制居住区を名づけることによって、世界の語彙を増した。大部分の町々のゲットオでは住民の数は法によって定められ、若い人びとはだれかが死んで定数に空きができるまでは結婚を待たねばならなかった。

ポーランドで起こったこと

ポーランドではユダヤ人は一時期、かつてスペインで享受したのにほぼ比せられる自由と繁栄とを楽しんだ。政府の重要な役職につくことさえ、許されていたのである。コサックがポーランドに抗して蜂起したとき、主に犠牲とされたのがユダヤ人だった。ロシア人のユダヤ人迫害の兇暴さと手ぎわのよさとは、史上にも前例を見ないものであって、10年とたたないうちに10万以上のユダヤ人が消えた。

ツァーがその帝国の国境線をポーランドを経て西に押し出そうとしたとき、中世のそれに似た残虐の新時代が、世界のユダヤ人人口のほとんど半ばに達する住民を襲った。歴代のツァーはユダヤ人を追いたて、西部国境に設置された植民地帯、史上最大のゲットオに、彼らを閉じこめた。若者は12歳から25年間、徴兵に応じることを強いられた。

コシャー(ユダヤ教の儀式に従って血を抜いて処理した肉)の肉と安息日のろうそくには、特別税が課せられた。ユダヤ人の女たちは娼婦の黄色い印を身につけている場合をべつとして、大きな大学都市で生活することを禁じられていた。

1881年のアレクサンドル2世の暗殺の翌日には、大衆は公然とユダヤ人虐殺を奨励された。恐怖と死との同義語である新語、ポグロムが生まれ、このことばは厖大なロシアの町から町へと響きわたった。爾後この東方の国の呪われた人びとには絶滅を逃れるすべはなく、その宗教への熱狂的な執着と伝統への情熱的な遵守のうちに、わずかに身をかがめているほかなかった。

フランス革命以後、西方の国々のユダヤ人たちは、多少はうらやむに足りる運命を享受していた。フランスでもドイツでもイギリスでも、19世紀は彼らを監視から解き放し、解放の恩恵を与えた。しかしユダヤ人の運命が決定的な転換をとげるのは、この人権宣言の都においてである。

1895年1月の、ある朝のことだった。この日、パリの士官学校の大校庭に集まった群衆のなかで、黒い立派なあごひげに飾られた男が、しきりに足ぶみをしていた。オーストリアのジャーナリストで、ヴィーンの最大の新聞のパリ特派員である。

彼の目前には、4000人の直立不動の将兵と向かいあって、砲兵大尉の細い孤独な影が立っていた。愛国の情熱の暴走に身をふるわせている群衆は、死刑囚の処刑公開を見に集まる中世の人びととそっくりだった。ある意味でこの朝の見世物は、まさに死刑執行だったのである。それはフランス陸軍の一将校の、降等の公開だった。

ジャーナリストを予言者に変貌させた光景

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