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高円寺にだけ存在する「なんか自由な感じ」の正体 若者だけでなく中年にも居場所がある安心感

東洋経済オンライン / 2024年7月24日 15時0分

貯金があと半分くらい減ったらさすがに尻に火のようなものがついてきて、「そろそろ真剣に考えないといけないな、人生とか」という気持ちになるのではないか、とぼんやりと期待しているのだけど、実際にそのときになったら「さらに半分くらいになるまで意外と平気だな」となりそうな気もする。

そういえば昔は、「何か本を出しませんか」というオファーが年に数件あったけれど、最近はあまり来なくなった。それは出版不況のせいではなく、書き手としての自分の問題だろう。自分自身がそんなにぱっとしない存在になってきているのをなんとなく感じる。まあ、今まで10冊くらい本を出してきて、大体のことは書いてしまって、そんなに書きたいこともなくなってきた、というのもある。

いや、そもそも仕事としては、書きたいことがあるから書くというのではなく、需要のあるものを書く、というのが正しいのだろう。

電力会社の人が全員電力に興味があるわけじゃないだろう。就職して大学職員をやっていたとき、学生の成績表の管理なんて何も面白くなかったけど、自分以外のみんなは淡々とこなしていた。好きとか嫌いとかではなく、求められることをやるのが普通の仕事なのだ。

でも自分にはそういうのがうまくできなかった。自分の興味のあること以外ができないからこんなよくわからない人生になって、高円寺によくいるずっと好きなことだけやってきてそうな職業不詳の胡散臭いおっさんたちに憧れてしまうのだろう。

本屋で店番をしているとき以外は、相変わらず自由というか、制限がなさすぎてだらしのない毎日を過ごしている。

適当な時間に起きて、適当なものを食べて、洗濯をして、ゴミを出す。限りある資源をただ食い潰す、その繰り返し。

少しずつ自分の家事がだんだん雑になっていることにうっすらと気づいているけれど、見ないふりをしている。例えば食事の質や、洗濯や掃除の頻度、丁寧さなど。この雑さが30倍くらいの速度で進行したら、1年後くらいにはゴミ屋敷の独居老人になるのだろう、という実感がある。

なんだか少しずつ、何かが詰んできている気がしなくはない。

この令和の世の中は、もう自分みたいな生き方が通用する時代ではないんじゃないだろうか、ということをときどき思う。

もともと自分は2007年頃に「できるだけ働かずに生きていきたい」みたいな内容をブログに書くというところから物書きを始めた。当時はそういう意見がある程度支持を集めることができたのだけど、今同じようなことを書いたとしたら、「人に迷惑をかけずきちんとしろ」と白い目で見られて終わりなんじゃないだろうか。

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