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かつての横浜市民の足「市電」にまつわる6つの謎 ビールを運んでいた?ロマンスカーがあった?

東洋経済オンライン / 2024年7月27日 7時30分

本牧線が開通するまでは、ビールの原料となる麦やホップを馬力や大八車で、地蔵坂・桜道経由で山を越えて工場へ運び込み、製品にして再び山を越えて出荷していたというから、その苦労が緩和されたのは間違いない。

だが、ここで1つ謎がある。横浜電気鉄道の営業報告書には、「ビール会社」の貨物引込線の距離が約54.3m(実際はマイル・チェーンで表記)と記されているが、これでは工場から電車通りまでの距離(推定約500m)にまったく足りない。

本線から分岐した短い引込線の先に倉庫や荷積みを行う場所があり、工場と倉庫の間は荷馬車等で運ばれていたのではないかと推測する説もある。しかし、それも今のところ証拠となるような写真等は見つかっておらず、謎のままなのである。

「市営化」前にあった遠大な構想

■Q2:横浜市電が横浜市外を走った?

横浜電鉄は、路線の延長に積極的だった。中でも遠大な計画だったのが、逗子線の建設である。1912年4月に掘割川河口の八幡橋までが開通すると、さらに杉田を経て、逗子までの延伸が計画された。

ところが、第一次世界大戦期を通じての物価の暴騰により、建設資材の価格が跳ね上がったのに加え、会社の経営悪化がこの計画を阻んだ。経営悪化の原因はいくつか存在したが、1つは土地経営のまずさがあった。『横浜市営交通八十年史』によれば、1918年頃に横浜電鉄が所有する土地は3万6000坪に上り、うち2万坪は賃貸されていたが、残りは遊休状態だったという。

さらに電力料金の高騰が経営を圧迫したほか、米などの諸物価の上昇で生活が苦しくなった従業員による待遇改善を求めるストライキも頻発した。

苦境に立たされた横浜電鉄は、1920年4月、横浜市に対して大幅な運賃の値上げを申請したが、これが市民の反発を受け、「市民生活に重大な影響をもたらす電車事業は1私営会社に放任すべきではない」との電車公営論が高まり、市営化の直接の引き金となった。

こうして1921年4月に横浜電鉄は解散、横浜市電気局が運行する横浜市電が誕生した。その後、1923年の関東大震災を経て、震災復興事業が進められる中、かつての逗子線計画のうち杉田までが1927年2月に開業した。ちなみに杉田を含む屏風浦村が横浜市に編入されたのは同年4月だったため、2カ月間は横浜市電が横浜市外を走ったことになる。

なお、逗子までの延伸は「市電」となったことから事業の対象外となり、京急電鉄の前身の1つである湘南電気鉄道によって建設・開業することになった。

実は事故も多かった

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