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かつての横浜市民の足「市電」にまつわる6つの謎 ビールを運んでいた?ロマンスカーがあった?

東洋経済オンライン / 2024年7月27日 7時30分

同様の事故は1943年と1948年にも起きたが、用地買収の関係から山元町停留場の移設は進まず、ようやく平坦地(現・山元町バス停)に移されたのは1949年6月になってからだった。

戦間期の横浜に咲いた“華”

■Q4:横浜市電に「ロマンスカー」が存在した?

「ロマンスカー」と聞けば、誰しもが小田急ロマンスカーを思い浮かべると思うが、横浜市電にもロマンスカーが存在した。1936年に5両のみが製造された1100型(製造:梅鉢車両)である。

外観に流線形のモダンなフォルムを採り入れ、車内には2人掛けのクロスシート(ロマンスシート)とロングシートが組み合わせ配置されたほか、つり革や車内灯のデザインも、大変に凝ったものだった。このロマンスカー、特別感のある車両だったために人気が高かったという。

また、ほぼ同時期の1934年には女性車掌が登場した。「ホワイトの帽子、空色の上衣、紺のラシャのスカート」(横浜貿易新報1934年6月14日付)の制服に身を包み、「男性とは違ったなごやかなムードの接客態度に、女性車掌は評判も上々」「何台もやりすごして、女性車掌の電車を選んで乗る客もあった」(『横浜市営交通八十年史』)と市民から温かく迎えられた。ロマンスカーと女性車掌は、まさに戦間期の横浜に咲いた”華”といえよう。

やがて戦争が始まると、青壮年男子が戦場へ送られ労働力不足に陥り、女性運転手が誕生した。当時は、ほとんどの電車が手でぐるぐる回すハンドブレーキであり、女性にはつらい仕事だったという。しかも、運転手といっても、まだあどけなさも残る「十五・六歳から二十歳くらい迄」(1945年1月4日付神奈川新聞)の少女たちが銃後を守ろうと必死に歯を食いしばっていた。

さらに戦時中、軍需工場への通勤輸送など市電の輸送量が増えると、ロマンスカーに改造が施され、収容力を高めるためにロマンスシートを廃止。全席ロングシートになってしまった。

それでも1100型車両は戦後も長く、活躍し続けた。1967年にワンマン車に改造され、1972年3月の市電全廃まで現役を貫いたのである。現在、横浜市電保存館(磯子区滝頭)には、1104号車が保存されている。

低運賃で庶民の味方だった市電

■Q5:数年で運賃が100倍になった?

市電の運賃の変化を追いかけると、その時代の世相が見えてくる。横浜電鉄開業時の運賃は片道3銭(当時は、かけそば1杯2銭)。その後、戦前は7銭の時代が長く続き、戦中の1943年5月から10銭になった。

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