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かつての横浜市民の足「市電」にまつわる6つの謎 ビールを運んでいた?ロマンスカーがあった?

東洋経済オンライン / 2024年7月27日 7時30分

■Q3:運転手のいない電車が暴走した?

乗り物に事故は付きものだが、道路上を行く路面電車は、やはり事故が多かった。横浜電鉄の「第三十三回営業報告書」(自1917年12月1日~至1918年5月31日)に掲載されている「運輸事故表」を見ると、半年の間に計76件もの事故が計上されている。

内訳を見ると、「衝突」が52件。電車同士なのか他の乗り物となのか、人との衝突なのかは分からない。おそらく、その全てが含まれているのだろう。続いて「脱線」が5件、「人為妨害」が2件、「停電15分以上」が2件、「断線」(架線切れ)が15件となっている。

昭和初期の1930年1月には、「横浜市電始まって以来の大椿事」と報道された大事故が発生した。運転手(局内では運転士ではなく運転手と呼称していた)も車掌も乗車していない車両が暴走し、他の車両に激突・大破。多くの負傷者が出たのだ。以下、1930年1月15日付の横浜貿易新報記事を引用しつつ、事故の概要を記す(「」内が引用)。

14日午前10時50分、長者町五丁目停留場で西平沼橋行き506号車が発車しようとしていた刹那、後方から猛スピードで走ってきた541号車に追突され、「大音響を発し両電車共に大破」した。

この追突した541号車は、直前まで事故現場から約1.5km先の山の上の終点、山元町に停車していた。当時の山元町の停留場は傾斜地にあり、その危険性は電気局も認識しており、山元町では「車掌運転手の下車する事を厳禁して監督まで置いて」いたが、このルールが徹底されず、541号車の車掌・運転手は下車して休息していた。

しかも、「ブレーキの止め方が不完全」だったらしく、乗客3人を乗せたまま自然発車。「急勾配の猿坂を全速力で疾走」し続け、事故に至った。この電車に乗り合わせていた郵便の集配人は、事故発生時の様子を次のように語っている。

「山元町終点に停車して居たあの電車に乗り発車を待つこと約三分間、すると電車がひとりでに動き出したので早く降りやうとしたが坂路のこととて速力が加はり降車の暇もなかつたが(中略)車橋上にさしかかつた際無我夢中で飛び降りた迄は判つて居ますが、それからあとは人事不省何もかも一切分らなくなりました」

一方、追突された506号車には、乗客乗員20人あまりが乗っていたが、「不意の大激動に俄(にわか)に将棋倒しとなり悲鳴を挙げ我を忘れて車外に逃げ出さんとして転倒し或ひは破れ硝子(ガラス)の為め重軽傷を負い」という大惨事となった。

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