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埼京線板橋駅、「軍需の街」玄関口からの大変貌 2025年で140周年、実現しなかった鉄道計画も

東洋経済オンライン / 2024年8月17日 7時30分

板橋駅の北隣にある埼京線の踏切。朝夕のラッシュ時間帯は開かずの踏切になる(筆者撮影)

東京都板橋区・北区・豊島区の3区にまたがるJR埼京線の板橋駅は、2025年に開業140年を迎える。

【写真を見る】JR埼京線の板橋駅、東武東上線の下板橋駅、都営三田線の新板橋駅。正式な所在地はそれぞれ別の区にある

板橋駅は、上野駅を起点に現在の東北本線や常磐線、高崎線などの路線網を築いた明治期の私鉄・日本鉄道が、東海道本線と自社線を結ぶ短絡線として建設した、赤羽駅―品川駅間の「品川線」の途中駅として1885年に開設された。

同時に開業した新宿駅と渋谷駅は、東京の発展と歩みを重ねるように副都心として成長した。両駅のその後の経過と比べると、なぜ板橋駅が同時に開設されたのか不思議に思う人は少なくないだろう。

赤羽駅から新宿駅までは距離があるので、その中間に駅を設ける必要があったという説明でもそれなりに納得できるが、板橋駅は決してそんな消極的な理由で設置されたわけではない。

「火薬製造の街」だった板橋

板橋駅があった地は、江戸時代から江戸四宿のひとつである板橋宿として栄えた。板橋宿は中山道最初の宿場町で、川越街道の起点という要衝地でもある。それだけに、明治期になっても人の往来が盛んだった。

こうした交通事情もさることながら、幕末から板橋一帯は火薬製造地として注目されていた。

鎖国を解いた江戸幕府は西洋列強に伍するべく近代兵器の研究に取り組み、最新技術を学ばせようと幕臣の澤太郎左衛門を欧州へと留学させた。澤が帰国すると、幕府は兵器に必要な火薬を大量生産する準備に取りかかる。澤は大量生産には機械の導入が欠かせないとし、その機械を動かす動力には水力が必要だと主張した。

こうした澤の主張によって、石神井川の水力を利用できる加賀藩下屋敷に火薬の製造所が設立された。

――と言いたいところだが、その準備中に幕府は崩壊してしまう。これで火薬製造所の計画は水泡に帰すように思われたが、江戸幕府の後を受けた明治新政府も火薬製造の重要性を認識しており、澤は引き続き要職として起用された。こうして、1876年から板橋で火薬製造が開始された。

石神井川には江戸末期から製粉や精穀用の水車が多数設置されていたが、明治以降は紡績・撚糸、製糸・製紙・製材・伸銅といった工業用の動力源として利用されるようになる。これらに火薬製造も加わったわけだが、軍事力の強化を急いでいた陸軍省は1880年、石神井川からの分水で水車を動かす際には事前に協議をするように各工場へと申し入れている。

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