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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓近世史は面白い! 」朝鮮出兵後の国交回復(前編)

Wow!Korea / 2016年7月26日 22時53分

現在の伏見城(写真提供:ロコレ)

1592年4月、豊臣秀吉の命令によって始まった朝鮮出兵は、1598年8月に当の秀吉が死んで終わった。朝鮮半島は荒廃し、数万にのぼる人たちが日本に連れ去られた。朝鮮王朝の恨みは骨髄に達していた。困り果てたのが対馬藩だ。朝鮮王朝との貿易を再開できなければ、島が餓死者であふれるおそれがあった。

■徳川幕府の正統性

たとえ相手が日本を憎悪していても、対馬藩は懲りずに使者を朝鮮王朝に送った。

情勢に変化があったのは1600年9月だった。

関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利した。これを機に、政権は豊臣家から徳川家に移った。見方を変えれば、家康は朝鮮王朝になりかわって秀吉に復讐をしてくれたようなものだった。

しかも、朝鮮出兵で家康は自前の兵を1人たりとも朝鮮半島に送っていない。このことは、朝鮮王朝側にとって悪い材料ではなかった。

1603年2月、家康は江戸に幕府を開いた。念願の征夷大将軍になったのである。秀吉の臣下となっても諦めなかった天下人の座。それを得られたのは、秀吉との長生き競争に勝ったからだった。

とはいえ、まだ徳川政権は始まったばかりである。大坂には秀吉の遺児の秀頼がいて、彼をかついで豊臣恩顧の大名たちがいつ反旗をひるがえすかわからなかった。

その機運を抑えるためにも、家康は自らの政権の正統性を渇望した。日本全土を統治するにふさわしい名目を……。

目をつけたのが、朝鮮王朝との修好回復だった。

■京都・伏見城での会見

秀吉によって隣国との関係は最悪になったが、家康の代で朝鮮王朝と仲直りができれば、それは大きな国益につながることだった。政権交代の名目にもなる。しかも、国内の基盤を安定させるためには、戦乱の傷痕が残る隣国と早く良好な関係を築いたほうが得策だった。

もう1つの大きな効果も見込めた。仮に朝鮮王朝から使節を迎えて外交関係を築けば、徳川政権が外国からお墨付きを得たことになる。これこそが正統性の証だった。

家康は、積極的に朝鮮王朝との修好に取り組む姿勢を見せた。その意向を受けて、対馬藩は盛んに使者を釜山(プサン)に送った。

朝鮮王朝でも、家康が相手であれば検討する余地があった。

政権を担う高官たちの間で、とりあえず日本の実情を視察する使節を派遣することで意見がまとまった。

その際、最適の人材として選ばれたのが僧侶の惟政(ユジョン)である。彼は松雲大師とも呼ばれたが、先の戦乱において加藤清正と何度も交渉をしており、その経験が買われた。

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