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ほぼ垂直な岩壁を2日間登り続ける…世界一のフリークライマー・平山ユージ「極限を超えた」という登攀の記憶

プレジデントオンライン / 2024年5月3日 8時15分

アメリカ・ヨセミテ salathe - 撮影=飯山健司

【連載 極地志願 第1回】人はなぜ自らの限界を試そうとするのか。1998年に日本人初のワールドカップ総合優勝を成し遂げたプロフリークライマーの平山ユージさんは、W杯優勝の1年前に「極限を超えた」という登攀を経験している。W杯より印象深いという登攀とは、一体どんなものだったのか――。(文・聞き手=ノンフィクション作家・稲泉連)(前編/全2回)

■「世界のヒラヤマ」と呼ばれる男

現在、55歳を迎えた平山ユージは、世界を代表するフリークライマーとして、多くの功績を残してきた人だ。15歳でクライミングに出会った彼は、10代のうちから国内で頭角を現し、フランスに渡った後はヨーロッパでトップクライマーとして活躍した。

1998年にはワールドカップで日本人初の総合優勝、ランキング1位となった翌々年にも二度目の総合優勝を飾る。その後もアメリカ・ヨセミテ渓谷の「エルニーニョ」、スペインの「ホワイトゾンビ」といった岩壁での登攀(とうはん)などを成功させ、そのクライミングの姿の美しさから、「世界のヒラヤマ」と呼ばれることでも知られる。

そんな平山には、「あの一瞬」が自らをすっかり変えてしまった、と確かに言える体験がある。それはワールドカップでの優勝や数々の「成功」ではなく、結果的に失敗に終わった壮大な挑戦でのことだった。

■ほぼ垂直の1000メートルの岩壁

1997年9月18日――。

その日、27歳の平山はヨセミテのエル・キャピタンにある、「サラテ・ウォール」というほぼ垂直の1000メートル近い岩壁の前に立っていた。

時間はまだ夜明け前で、周囲は暗闇に包まれていた。ただ、これから彼が取りつこうとする壁の全容は闇に溶けていても、その存在感は重々しく放たれているようだった。

「サラテ」はヨセミテ国立公園にある花崗岩の岩壁で、ヨセミテにおけるロッククライミングの先駆者ジョン・サラテの名にちなんでつけられたビッグ・ウォールである。平山はこの岩壁を「オンサイトトライ」、つまりは登攀を自らの肉体だけで、初めての挑戦によって完登することを目指していた。

朝、平山はトレーニングでも世話になってきた友人の自宅から、車でサラテへと向かった。サラテが近づいてくるにつれて、これまで感じたことのないような緊張感が、胸に染みつくように広がってきた。それは彼にとって、この登攀では何が起こるか分からない、という未知に対する緊張感であった。

■1ピッチ目で足を滑らせても、全てが終わる

取りつきには、登攀を撮影するテレビスタッフや妊娠中の妻の姿もあり、頂上には二人のカメラマンがスタンバイしている。

サラテでの「オンサイトトライ」というアイデアを2年前に思いついて以来、激しいトレーニングを続けてきた。だが、いま、いよいよクライミングを始めるに当たって胸に去来するのは、自らが自らに対して課してきた時間の重さよりも、その挑戦を支えてきた人々の姿であった。

「多くの人たちを巻き込んできた」

と、彼は思う。

オンサイトトライでは、最初の1ピッチ目(ルートの区切り)で足を滑らせてしまっても、全てが終わってしまう。このクライミングのチャレンジを支えてくれてきた人々の思いは、自分の一瞬のミスで水の泡と化してしまう。

9月中旬のヨセミテは秋の気配が色濃く漂い、乾いた空気が冷たかった。

ヨセミテバレーの景色
写真=iStock.com/zodebala
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/zodebala

ヘッドランプを点け、指にチョークを乗せる。そして、つるりとした花崗岩の壁に彼は取りつく。

緊張感からだろう。最初のホールド(手がかり、足がかり)をつかみ、これから長い時間をともにする壁に取りついたとき、

「硬い登りだな」

と、感じた。

闇に包まれている壁を、それでもライトに照らされたホールドだけをひとつ、ひとつと追っていく。

氷河が溶けた後の壁である花崗岩は、下の方ほど起伏が滑らかで、登り始めが最もつかみどころがない。

■「死闘」のようなクライミングの始まり

だが、一つひとつのホールドに指をかけて黙々と登っていくと、少しずつ身体から緊張が解けていくのを感じたのも確かだった。

「緊張」とはエネルギーの塊のようなもので、クライミングの動作を繰り返すうち、その熱が身体を循環して燃えていくような感覚を抱く、と平山は言う。

「結局、メンタルというものも、頭の中の発想も肉体から発せられている。エネルギーを燃やすとそれも燃えていくような感じですよね。ガスが抜けていくような感じがするんです。だから、登れば登るほど気が楽になっていきました」

ライトに照らされた範囲だけに集中していると、平山は自分が「その世界に棲んでいる」という気持ちになった。壁面と平山の動きが呼応し、彼を取り囲む小さな世界だけが、スポットライトを当てられたように浮かび上がっていた。

夜が明けてきたのは、クライミングを始めてから30分ほどが経ったときだった。2ピッチほどの高さにたどり着く頃のことだ。

ふと頭上の方を見ると、薄明かりの中に1000メートルの壁がその全容を露わにしていた。

光に照らされた自分だけの世界が終わり、

「あそこまで行くのか」
「けっこう長いな」

という気持ちが胸をよぎった。

それが、これから2日間にわたって続いた、彼の死闘のようなクライミングの始まりだった。

■「極地」で、彼が何を見たのかを知りたかった

平山によるサラテの「オンサイト」での挑戦は、世界のフリークライミングの歴史の中でも前代未聞の試みだった。

オンサイトでは、初めて触る岩場を、何の情報ももたずに登り切る。その次に難しいとされる「フラッシュ」では、自分が触るのは初めてだが、ほかの人間が登ったルートなどは確認できる。オンサイトの条件は「初めてのルート」であるため、それを登攀できるのかはわからない状態で、一度も落ちずに完登を目指す。なお、ロープなどの安全確保をしない「フリーソロ」という登り方もあるが、平山は安全確保をしながら登攀している。

エル・キャピタンの「世界最大の一枚岩」とも呼ばれる標高差1000メートルの壁は1958年、アメリカ人のロッククライマーであるウォレン・ハーディングによって頂上までのルートが初めてつながれて以来、幾人かのクライマーがその頂に到達していた(ハーディングの登ったルートは『ノーズ』と呼ばれる)。「サラテ」は1960年に築かれたルートで、世界的にもっとも有名な「ビッグ・ウォール」の一つだった。

エル・キャピタン(アメリカ・ヨセミテ国立公園・ヨセミテバレー
写真=時事通信フォト
エル・キャピタン(アメリカ・ヨセミテ国立公園・ヨセミテバレー - 写真=時事通信フォト

このサラテでは人工的な登攀器具を使わない「フリー」での完登が、1988年に成し遂げられていた。だが、それをさらに「オンサイト」で行おうとする者は現れなかった。

平山の挑戦は、その意味で未だ誰も想像したことのない極限の挑戦だった。そして、彼にとっては自身のクライマーとしての極地を超えようとする試みだったと言える。

平山はその極地の向こう側へたどり着こうとすることで、自らのクライマーとしての「集大成」となる表現を行おうとした。それを成し遂げることは、当時27歳だった彼に「人生の次のステップに踏み出す経験」となる予感を抱かせていた。

私が平山に当時の「サラテ」の話を聞きたいと思ったのは、そんな戦いようなクライミングの先で、彼が何を見たのかを知りたかったからだ。

■登る理由は、単に「楽しいから」ではない

以前、平山にインタビューする機会を得た際、彼は「サラテ」での体験によってクライミングに対する意識が変わり、その行為を次のようなものだと捉えるようになったと話していた。

「僕は岩登りが好きだし、その文化の中にいるのも好きだったけれど、じゃあ、本当の自分は何を求めているのか。何を求めて、なぜ岩登りをしているのか。それは単に『楽しいから』ではないんだ、とサラテで僕は思えるようになったんです。

それはサラテでのクライミングが、自分の生命の根源的なところにある感覚で挑んだ挑戦だったからだと思います。例えば、地球上に生まれた生物としての使命というものだったり、自分を支えてくれるいろんな人の存在があったり……。自分が生きている『意味』のようなものを、自分で感じ取りたい、知りたい、学びたい。『このように生きたいから、クライミングをしているんだ』という気持ちを、あのときに僕は初めて得たんですね」

■「生きる意味」をどのように獲得していくのか

クライミングによって「自分が生きている意味」を知る。その言葉を聞いたとき、私はそこに「その人にとっての極地体験」の意味があるのではないか、と思った。

「極地」には様々なイメージがある。北極や南極などの地理的な地点、自身の限界を超えなければたどり着けない場所、これまでの人生の全てを投じてなお、手の届かないかもしれない領域――。

私は「自分が生きている意味」をクライミングによって感じ取りたいという平山の話に、憧れのような気持ちを抱いた。「極地」に向かう挑戦をした者にしか語れない境地には、人間が「自分にとっての生きる意味」をどのように獲得していくのか、というプロセスを教えてくれる何かがあるのだとしたら――。この連載ではそんな問いを抱えながら、そのような体験がもたらすものを浮かび上がらせてみたい。

■「デジャヴのような感覚、と言えばいいのかな…」

「……あの日、サラテのクライミングの中で、僕はこんなふうに感じていたんです」

平山は言った。

すでに20年以上前のクライミングの記憶にもかかわらず、彼はそれが昨日のことであるかのように話した。クライミングの時の動きを再現する彼の指には、そのときの岩肌の感触が未だ鮮明に残っているようだった。

――どんなことを感じていたのですか?

「デジャヴのような感覚、と言えばいいのかな……。それまでの2年間、あらゆるシチュエーションを想定して、トレーニングを続けてきましたからね。だから、『壁の中』にいるときは、何だか自分がすでにこの場所に来たことがあるような、すでに経験している壁を登っている感覚があったんです。もちろん、それでも『未知』の部分はいくらでも残っているんだけれど、その『未知』をトレーニングによってかなり減らすことができていた、ということでしょうね」

――サラテでの挑戦の場合、例えば、平山さんにとってその「未知」とはどのようなものだったのでしょうか。

「一つ例を挙げるとすれば、『花崗岩の壁を登る』という経験自体についてもそうです。花崗岩の壁を登っていくときは、石灰岩と違って不確定要素が多い。石灰岩の岩は起伏があるので、握って登れるんですよ。だから、フィジカルを鍛えていくと成功の可能性がかなり高まる。」

■「一見すると何もないところ」に立つ

「一方で花崗岩の壁って岩肌がざらっとしていて、つかめるポイントが視覚的に分かり難い。緩やかな起伏を効かせて登っていくわけだけれど、最初は『グレーの壁がばんと一枚ある』ような感じで、どこをつかめばいいのか、どこに足を乗せて立てばいいのかも分からなかった。その中で、2メートルくらい離れたホールドに飛びついたり、一見すると何もないようなところにすっと立ったりしなければならないので、求められる内容が幅広く、バラエティに富んでいるんです」

――そのような「未知」の領域を、トレーニングによって減らしてきた、と。

「はい、未知の部分というのは、最終的には行ってみないと分からない領域が必ず残るわけです。でも、グレーのざらっとした起伏であっても、何度も同じような壁でトレーニングを繰り返すと、『カジュアル』に感じられてくるものなんです。そうすると、楽にすっと取りつけるようになっていく」

――サラテのオンサイトトライのためのトレーニングとは、どのようなものだったのでしょうか。

「サラテのオンサイトトライを思い付いた当時の僕は、まだ25歳ですからね。若さに身を任せて、自分の能力の限界値を確かめるように、1日に5、6時間は登っていました。友達の家に3日くらい泊めてもらって、サンフランシスコのジムにひたすら通いました。そうしてフィジカル的な要素を鍛えた後は、ヨセミテに戻って不確定要素の強い壁に取り組み、いろんなルートやシチュエーションを登って感覚を研ぎ澄ませていきました。人工壁でフィジカルを鍛え、実際の岩場で感覚と発想を磨く。それをだいたい3週間のサイクルで繰り返していましたね。そうやって、様々なシチュエーションを身体に経験させて、自分のものにしていったんです」

■「身体」と「心」と「技術」の結びつき

――様々なシチュエーションとは?

「1000メートルの壁を何の情報もなしに登ろうとすると、イメージの中にいろいろなシチュエーションが出てくるんですよ。例えば、90度よりオーバーハングしている大きなルーフ(ほぼ180度の壁)。あるいは『スラブ』といって何もない垂直よりも寝ているような壁。それから、プロテクション(安全を守るためのもの)が全く取れない状態に陥ったとき――。

それらのシチュエーションに直面した時、では、自分はどう登るのか。頭の中で考えているだけでも、起こり得る難しい状況が無限大に広がっているんです。だから、トレーニングではその発想の中で生まれてくるものを、こういうケースではどう動こう、こう対処しよう、と一つひとつ埋めていくんです。そして、どれだけものすごいシチュエーションを想像していても、実際の壁ではそれ以上のことも起こる。

だから、『未知』のシチュエーションを一つでも減らすためには、1年、2年とトレーニングを続けて体力的な数値を上げていきながら、ひたすら登りこんでいくしかないんです。フィジカルの数値が上がれば、これまで難しかったことが簡単になる。そうすると想像力がさらに広がり、次に必要な技術の目標も見える。身体と心と技術の結びつきを、三位一体にしながら鍛えていく感覚です」

■体力を追い込むほど、本番での発想が広がる

――実際のトレーニングはどれくらいハードなのでしょうか。

「僕の場合は、時間や量の目標は設けず、『その日のできるところまでやる』というやり方でした。これ以上は登れない、というところまでトレーニングをすると、最後は易しい難易度のものも登れなくなっていくんです。

そうなると、握力だけではなく、身体全体が思考から何もかも衰えるような状態になりますね。疲労が極限まで達することで、手も動かなければ発想も縮んでくる。室内であれば必ずそうした状態になるまで、ジムの閉店の合図があるまで登り続けていました。

逆に言えば、身体の疲労と思考力は相関関係にあるわけだから、体力的なものを追い込めば追い込むほど、本番での発想が広がるはずなんです。すごい体力を持っていることで、思考の持続や正しさが維持できる。そう考えて自分をぎりぎりまで追い込む毎日でした」

■過酷なトレーニングを続ける中で見えてきたもの

トレーニングでヨセミテに滞在しているとき、平山はヨセミテ国立公園のすぐ近くにある友人宅への帰り道に、いつもエルキャプメドーという草原にレンタカーを止めた。そこからは自身がオンサイトでトライするサラテの岩壁が、2キロメートルほど先に見えたからだ。

エルキャプメドーから見るサラテは、絵ハガキの写真のように美しく、じっと見つめていると遠近感が狂い、巨大な岩の塊が目の前にあるような感じがした。

車から降りた平山は「トポ」というルート図を広げ、それと照らし合わせながら双眼鏡で壁を見た。

最初はそうして双眼鏡から眺めたとしても、サラテは「ただのでかい壁」にしか見えなかった。しかし、実際に過酷なトレーニングを続け、挑戦の日が近づいてくると、これまで見えなかったものが、その目には映るようになってきていた。

■「努力のやり方」もクリアになっていく

壁に対する好奇心。登りたいという気持ち。日々、多様なシチュエーションを想像しながらトレーニングをしてきたこと――。

そんな思いと日々の努力に応じるように、サラテは様々な表情を彼に見せるようになっていたのだった。

「サラテに登る日が来るまでの2年間、毎日、そのことを考え続けてトレーニングをしていたからでしょうね。自分の壁に対する考えが深まれば深まるほど、そのフィルターを通してあらゆる物事を見るようになっていく。

すると、最初はただの壁であった場所に、緩やかな凹凸やプロテクションが見えてきたり、『あそこにピッチの切れ目の終了点があるんじゃないか』と想像できたりするようになってきたんです。そんなふうに物事が見えてくるようになると、さらに努力をしたくなってくるし、努力のやり方もクリアになっていくんです」

……平山がサラテへの挑戦というアイデアを思い付いたのは、1995年の秋のことだった。この年、25歳になった平山は、9年ぶりにアメリカを訪れた。

「そのときにね――」

と、彼は言う。

■初めてヨセミテを訪れたのは17歳の時

「以前に来たときには見えなかったものが、岩壁に見えているように感じたんです」

15歳の時からロッククライミングを始めた彼は9年前、世界的なクライマーである山野井泰史に誘われ、初めてヨセミテを訪れた。

当時、多くのクライマーが練習場所にしていた東京・常盤橋公園の城壁跡の石垣の近くに、彼らのたまり場となっていた「アトム」という喫茶店があった。まだ幼さの残る平山は年上のクライマーたちに可愛がられ、彼らの話す聖地ヨセミテでのロッククライミングに憧れを抱くようになった。

平山はヨセミテへの渡航費用を貯めることを決意し、高校の授業を終えると常盤橋公園で2時間ほどトレーニングをした後、京王デパートのビル清掃のアルバイトをして金を稼いだ。

そんななか、平山をヨセミテに誘ったのが、当時20代前半だった山野井だった。山野井は前年にヨセミテでのクライミングで足を負傷しており、その再チャレンジをするので一緒に来ないか、と平山に言った。

■ヨセミテで「自分の進むべき道」を見つける

そうして初めてヨセミテを訪れたときの感動は、いまも平山の胸に焼き付いている。ロサンジェルスからバスに乗りマーセド経由で、クライマーたちの拠点となっている「キャンプ4」に向かうと、これまで写真でしか見たことのなかった有名な山や壁が次々と目の前に現れた。クライマーたちとの交流も刺激的だったし、何より山野井と州境を越え岩場を変えてクライミングを続けた経験は、平山にとって大きな財産となった。

このヨセミテでの体験は、平山のキャリアの転機となった。そこで彼は「ヨーロッパのスタイル」のクライミングに出会い、自分の進むべき道はこれだと感じたからだ。

「当時の日本に入ってくるロッククライミングの情報は、力でねじ伏せる冒険的なアメリカのスタイルのものばかりだったんです。一方でヨーロッパのスタイルでは、難易度の高い岩場を、技術を使って乗り越えていくものでした。ヨセミテの岩場をヨーロッパの無名のクライマーたちが次々に制覇していくのを見て、これこそが世界に通じるスタイルなんだと思いました」

その後、平山はフランスの著名な岩場である「ビュークス」などの遠征を経て、翌年の1989年に通っていた高専を中退してヨーロッパに渡った。そして、フランスのプロヴァンス地方のエクス=アン=プロヴァンスを拠点に決め、日本で結婚するまでの7年間をそこで過ごすことになった。

■「なぜ登るのか」という答えの出ない問い

だが、そのなかで胸に抱えるようになったのが、「なぜ自分は登るのか」という答えの出ない問いだった、と平山は振り返る。

「正直に言えば、クライミングに対する情熱を失った時期もあったんです」

――それはなぜだったのでしょうか。

「1988年にヨーロッパでは当時の最難関と呼ばれていた8b+の壁も登ったし、89年には世界的にステータスのある大会でも優勝しました。

スポンサーもついていたし、ある程度の結果はついてきていたんですよね。

でも、15歳の時のように単に登っていることが楽しい、という時期はもう過ぎてしまっていた。20歳を過ぎて、『自分にとってクライミングとは何だろう』と年を追うごとに考えるようになって……。

それは僕にとって『なぜ自分は生きているのか』という問いと同じものでした。あの頃は『その答えが出るまで、とりあえずやっているか』みたいな感覚で、何か目指すものを失ったような気持ちの中にいました。もちろんそんな気持ちの状態では、なかなかいい成果は上げられないものです。なんというか、根本的なものがクリアにならなくて。そういう生活をずっと続けていて」

■同じ壁に見えた9年前とは「全く違うもの」

――1995年にアメリカを久々に訪れたとき、そんな迷いの最中にいた、と。

「はい。あの年のツアーはフランスからアメリカ、一度フランスに戻ってから北欧、ドイツ、イタリア、そしてフランスに戻るというものでした。その間、クライミングという好きなことをやっているけれど、何かが自分の中で違う、という限界のようなものを感じていたんです。ところが9年ぶりにアメリカを訪れ、かつて10代のときにオンサイトで成功した『スフィンクスクラック』というルートを見たときのことでした。これまでの経験がフィルターになって、同じ壁に全く違うものが見えるようになっていることに気づいたんです」

――その「違い」とはどのようなものだったのですか。

「岩を登るためには、ルートを深く理解する必要があります。自分の経験の中から登り方を探るわけです。この「経験」というのは、単にクライミングだけに限らない。自分がこれまでどのように生きてきたか、いまの自分の生活や思い、考え方、その全てが一つの動きに変わっていく、と僕は思っています。

■雪解けのような感覚をもたらしてくれた

その意味でアメリカを再訪したとき、以前は感じ取れなかった様々な岩壁の主張が見えた、というのかな。17歳の時にアメリカに半年間いたときに感じたことと、25歳のいまの自分が同じものを見て感じていることに、大きな違いがあったんです。ヨーロッパに長くいる中で、自分の中で磨き上げられたものを通して物事を見るようになっていたから、ということだと思います。

僕はあのとき、その感覚がとても嬉しくて、心地よかった。こういう感覚を自分は求めているんだな、と感じたんです。17歳の時には全く想像もつかなかった自分に25歳の自分がなっている。それは僕に雪解けのような感覚をもたらしてくれた」

アメリカでその「感覚」を胸に抱いたまま、平山は3カ月間のツアーを終えてフランスに戻った。「サラテ」に出会ったのは、ちょうどそのときのことだった。

ある日、キヨスクで買った雑誌に、サラテの記事が載っていた。当時、1000メートル規模の壁を素手で登るルートは、世界に2つしかなかった。

その岩壁をオンサイトによって登る――。ふとそう考えると、彼はその考えに瞬く間に夢中になった。

■平山ユージのクライミングをどう表現していくか

「周囲にとっては『何を考えているんだ』と言いたくなるような、得体の知れないチャレンジだったでしょう。だけど、その記事の写真を穴の空くほど見ていると、『待てよ……』と僕は感じました。

ルート図があって、そこにグレードが書いてある。あれ、これ、誰も想像していないけど、自分にはできるんじゃないか。しかもオンサイトトライでできるんじゃないか、と思っちゃったんです。自分の普段のトレーニング、アメリカとヨーロッパの両方のスタイルを組み合わせた能力と経験があれば、これはできるぞ、と。世界中にいま、サラテをやろうとしているのが自分だけだと思えば思うほど、心が燃えてきましたね。

1997年当時、妻のお腹には子供もいました。生活の拠点もそろそろ日本に移し、自分の次の人生の目標も見据えなければならない。それなら、最後に平山ユージのクライミングをどう表現していくか――そう考える中で、サラテルートのオンサイトトライは自分を表現する上での最高の題材だと思えたんですね」

それは平山にとって、15歳から続けてきたクライミングの様々な経験が化学反応を起こし、彼自身の内側から湧き出るように生じた衝動のようなものだったに違いない。ワールドカップのような「外」から与えられた条件ではなく、自分が自分のためだけに登るべき岩――。このとき、彼はそんな岩壁を心の裡に抱え込んだのだ。

(後編に続く)

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平山 ユージ(ひらやま・ゆーじ)
プロフリークライマー
1969年東京生まれ。15歳でクライミングを始め、10代の若さで国内トップに。その後フランスに渡り、ヨーロッパでトップクライマーとして活躍。1998年ワールドカップで日本人初の総合優勝を達成する。2000年2度目のワールドカップ総合優勝を飾り、年間ランキング1位に輝く。2010年クライミングジム、Climb Park Base Campを設立。2021年東京オリンピックでは、解説者として競技の魅力を伝える。現在は地域振興にも尽力し、埼玉県小鹿野町に小鹿野クライミング協会を立ち上げ、会長を務める。

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稲泉 連(いないずみ・れん)
ノンフィクション作家
1979年東京生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)、『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房)など。近刊に『サーカスの子』(講談社)がある。

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(プロフリークライマー 平山 ユージ、ノンフィクション作家 稲泉 連)

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