1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「不採用を一転、年金局に配属」あきらめの悪い男 年金を巡る攻防の全記録『ルポ年金官僚』より#1

東洋経済オンライン / 2024年4月15日 9時0分

入省は通常なら1960年4月1日付だ。「入省が急遽決まった」と書いたのは、小山の指示で、同期で一人だけ1月1日付に前倒しされ、年金局に配属されたからである。

年金局が、新人の手も借りたかったのは、前年1959年4月に国民年金法案が成立し、1961年4月、国民皆年金制度が本格的に実施されるためだ。

日本の公的年金制度は1941年、一般労働者向けに広げた労働者年金保険法をもって始まりとされる。対象は男性だけだったが、1944年に女性も加入できるよう法改正された。同時に「労働者」という表現が社会主義思想を連想させるとして「厚生年金保険法」に名称変更され、いまに至っている。

1954年、55歳だった男性の支給開始年齢を20年かけて段階的に60歳に引き上げるといった、厚生年金保険法の大改正が行われた。この時点で、年金加入者は全就業者の4分の1にとどまっていた。零細企業の社員や、農民、自営業者は厚生年金に加入できないのだ。当然、「4分の3」の老後保障を求める声が上がってきた。

政治は反応せざるをえない。1955年2月の衆議院選挙で各政党は、農漁民ら自営業者も加入できる年金制度の創設を掲げた。同年10月、左右に分裂していた社会党が統一して日本社会党が、11月には民主党と自由党が合流して自由民主党が誕生した。自民党が与党、社会党が野党であり続ける「55年体制」である。

「国民皆年金制度」が既定路線となる中、1957年2月、総理の座についたのが、岸信介――安倍晋三の祖父であった。

病を抱えた秀才官僚

1958年4月1日、厚生省に「国民年金準備委員会事務局」が設置された。厚相・堀木鎌三が、病に臥せりながらも、省内各局から優秀な人物を集めよとしつこく指示を出したためだ。そこで事務局トップに抜擢されたのが、42歳の保険局次長・小山進次郎であった。

小山は東京帝国大学法学部を1938年に卒業後、設置されたばかりの厚生省に入省。翌年、山口県庁に出向し、県庁そばの書店で最も本を買う客だったという逸話が残る。1942年には、猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』で題材にされた若手エリート集団「総力戦研究所」の研究生となった。終戦後、引揚援護院援護局業務課長、社会局保護課長といった弱者救済に携わり、1951年に省中枢の大臣官房総務課長に。1956年、保険局次長となった。

眼鏡をかけた痩身の神経質そうな外見である。実は、30代で心臓病を発症し、聖路加国際病院の日野原重明(後に名誉院長)を主治医として病と闘っていた。小山が急に姿を消せば、トイレで薬を飲んでいると、後輩たちは理解した。

大臣肝いりの組織とあって、各局は有望株を速やかに推薦してきた。

事務局は正式なポストでなく、小山は、医療機関の診療報酬が全国一律となったことによる処理で、保健局次長を兼務した。当面は、尾崎重毅事務局次長(厚生年金保険課長兼務)が舵取りを担った。尾崎は後に人事課長となり、古川貞二郎の直談判を受ける。

事務局は部屋や備品の手配から始めなければならなかった。

こうして入居したのが、あのオンボロ庁舎2階だった。

(第2回につづく)

和田 泰明

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください