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今年の大阪アジアン映画祭を振り返る エドワード・ヤン“映画界入り初仕事作品”の貴重な裏話も【アジア映画コラム】

映画.com / 2024年4月21日 15時0分

 私はもともとアメリカに留学していました。海外で勉強することがどういうことなのか――学生であれば自分なりの考えを持っていますが、我々の留学生活を映画化してもあまり意味がない。やはりあの激動の時代(1910年代前後)を舞台にしたいと考え始めました。当時の李叔同は何でもできる才能の持ち主で、しかもお金持ち。では、なぜ最終的に出家したのか。その答えを、映画を通じて探したかったのです。

 そこで、私はエドワード・ヤンにも李叔同の伝記を読ませました。彼は読んだ後、李叔同の考え方には共感できず、現代的視点で李叔同を“クズ男”と言っていました(笑)。脚本作りの際は、もうひとりの登場人物を入れたいと提案し、ツイ・ハークが演じた「恐怖分子」のようなキャラクターが映画の中に登場することになりました。

――ツイ・ハークの出演。これは凄いキャスティングですよね。かなりの熱演でした。

 ツイ・ハークは昔から知っていて、彼もアメリカに留学に行きました。確かに私が香港に帰った後に、彼も香港に戻りました。最初はテレビ局に務めましたが、映画が好きで、台湾でデビュー作を撮りました。私たちは常に交流していたので、私が『1905年の冬』の話をした後、彼はすぐ出演を快諾してくれしました。その時、彼はアニメーションにも興味を持っていました。「蜀山奇傅 天空の剣」は、最初アニメで作りたかったようですが、なかなか難航していて実現しませんでした。ただ、当時の『スター・ウォーズ』の影響が大きくて、最終的には実写化をして大ヒット。彼も香港映画の巨匠となりました。

――なにより日本でロケを行っている点に驚きました。当時の日本での撮影はいかがでしたか?

 当時の撮影は大変でした。私は、アニメーション作家の川本喜八郎さんと仲が良く、いつか一緒に中国の物語をアニメ化したいと思っていたので、常に交流していました。そこで、日本で川本さんと会った時、その場で川本さんのプロデューサー・山上博己さんと知り合い、日本で映画を撮影するための方法を色々と教えてくれました。本作に参加した日本の役者やスタッフは、全部山上さんの紹介で、彼も少しだけ出演しました。山上さんには非常に感謝しています。

――撮影は、飛騨高山でも行っています。東京からはかなり離れていますよね。

 「冬のシーンを撮りたい」と言ったら、勧められた場所なんです。当時、撮影機材はすべて東京にあったので、車で飛騨高山まで運びました。当時運転していたのは、エドワード・ヤンでしたね。エドワード・ヤンはアメリカではよく運転していましたが、日本は左側通行で道が狭い……いま思い出すと、かなり危なかったです。無事に着いて、本当に良かったです。

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