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「SHOGUN 将軍」プロデューサー・宮川絵里子が“エミー賞最多ノミネート”に至るまでの道のり【NY発コラム】

映画.com / 2024年9月8日 8時0分

 驚きのメールを受けとった宮川は、すぐに決断する。

「私は片道切符を取得して飛行機に乗り込み、中国に行きました。そこで私は雇われたんです。とても幸運でした。通訳という仕事は、経験や知識はなくても、いろいろなことに触れることができるので、とても勉強になるんです。当時の私は、俳優と美術監督の通訳をしていました。美術部はすべて日本人でしたし、彼らとは非常に密接に仕事をすることができました。 それまで私は映画のセットで働いたことはありませんでした。初めての経験でもあったのですが、これほど深く、幅広く、映画に触れることができて本当に幸運だったと思います」

 タランティーノ監督との仕事はどうだったのだろう。

「いきなり“トップとの仕事”でしたが、とても楽しかったです。当時、彼はすでに監督として大スターで、『パルプ・フィクション』は世界的な現象を巻き起こしていました。彼は『キル・ビル』を撮れることに、とても興奮していましたね。当時の中国は少し開放され始めていて、とてもユニークな時代。外国人はそれほど多くなく、Beijing Film Studio(北京電影制片廠)で撮影された最初の外国映画だったと思います。Beijing Film Studioは、共産党のプロパガンダ映画を製作するために作られたものでしたが、我々にとってそこにいることは特別な経験でした。そしてクエンティンは、そんなユニークな場所で、あの作品を撮れることをとても喜んでいました。それが、我々スタッフにも伝染したんだと思います。まるでサマーキャンプのような気分でした(笑)」

 「キル・ビル」以降は、マーティン・スコセッシ監督作「沈黙 サイレンス」で共同プロデューサーを務めている。それまで言語や文化を伝えるための翻訳家、コーディネイターとして関わってきた宮川が、どのようにプロデューサーへの道に辿り着いたのか。

「徐々に出世していったんだと思います。(『キル・ビル』以降の)私はコーディネートとリエゾン(部門や組織間でのコミュニケーションを円滑にする役割)を始めていました。私はもともと、プロデュースをしたいと思っていたので、ひとつの部門だけに自分を限定しないようにしてきました。だから衣装のことも、美術部のことも、経理のことも知っておいたほうがいいと思っていました。だから私はあらゆる機会をチャンスと捉えていて、多くの部門で働きましたし、通訳としても動きました。それが徐々に出世していった要因です。『SHOGUN 将軍』も大きな仕事ではありましたが、日本的な要素を含むアメリカ映画や国際映画以外の作品で行ってきたような“日本側でクリエイティブかつ実務的に必要なことをサポートして提供する”という点については一貫して変わっていません。つまり、その量が多いときはプロデューサーと呼ばれ、少ないときはコンサルタントやリエゾンと呼ばれることがあるんです。だから私は、プロデューサーと呼ばれることにこだわっているわけではないんです。ただ、日本的要素のあるプロジェクトをサポートし“日本がうまく表現されるようにしたい”と常に思っているだけだと思います」

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